言葉の意味に出会うこと
2020年8月30日
「ふでばこ」は、今どきの小学生にも通じます。でも「筆」は入っていません。それを指摘すると、「あ、そうだね」との反応。「げたばこ」は使わなくなってきていると思います。さすがに「下駄」で登校する子は見なくなりました。
言葉の意味をさして考えず、それが何を指すか、のみを功利的に使っている場合、言葉の由来や背景について意識はしないものでしょう。英語の言葉にも語源がある程度分かっているものがありますが、妙に学習した日本人のほうが詳しい場合もあるかと思います。逆に、日本人は日本語の語源に疎いというのも、ありがちなこと。
報道で日々目にし耳にする言葉のひとつに「浮き彫りにした」というものがあります。はっきり分かるように目立つようにさせた、というような意味だということは、なんとなく伝わっているかと思いますが、果たして「レリーフ」というものそのものを意識しているかどうか、は怪しいものと思われます。
「浮き彫り」はまだよいほうで、「走馬燈のようによみがえる」と、分かったような気がして口にすることがありますが、さて、走馬燈を実際に見たことがあるかどうかとなると、殆ど怪しいのではないでしょうか。何かに喩えるということは、その何かを人々がよく知っていることが前提になるはずですが、「走馬燈」という、誰もが知らないことを喩えに使って、互いに思いが通じたような気になっているのですから、不思議なものです。
さすがに英語でもいまの人は「犬や猫が降る」を使うことは殆どないでしょうが、少し古い文章に触れる機会のある日本の受験生は、この英語を学習することが多いので、なんだか奇妙なものです。酷い雨と共に、茅葺き屋根から猫なんかが落ちてきたことに由来するらしいのですが、日本人だって「土砂降り」と言いますから、まさか土が降るのか、と考えてみれば不思議なものです。「どしやどしゃ(どさどさ)降る」のオノマトペに字を当てたと聞くと、漢字そのものの意味に囚われないほうがよいのだな、と教えられます。
でも、このような言葉の一つひとつに含蓄されるものを意識しながら使うことが、詩人の仕事になることもあります。ミュージシャンの作詞の中にも、はっとさせられる表現があり心惹かれる、という経験もするものです。しかし言葉は、多くの場合は「記号」に過ぎません。何を指すか、何を行うのか、それが通じれば、言葉としての役割を果たしている、とするものです。
聖書の言葉も、それが「記号」としてしか目に入らない人がいるかもしれません。いや、意味が隠れているぞ、などということまでは考えるにしても、通り一遍の意味で分かった気になったり、またよく聞く解釈でその全てを理解したつもりになったりすることもあるものです。以前ほどではないにしろ、「教科書ガイド」を頼り、すっかり信用するという学習の仕方が身についているのかもしれません。
甚だしい人は、クリスチャンだと名のりながら、聖書のここの意味はこうである、という教科書の説明をそのまま鸚鵡返しに口にして、自分は聖書を読んだし、意味も知っている、と自慢するように言うような場合もあります。残念ながら、このように自分を誇るような真似をする人は、クリスチャンではありません。それが言い過ぎならば、少なくとも、キリストに生かされている実感をもちつつ歩んでいるのではない、とでも申しておきましょうか。
聖書の言葉は、その都度、日々新しく、私に呼びかけてきます。「真理」という言葉には、「隠れていたものが現れてくる」というようなニュアンスが、古代語にはこめられているとのことですが、自分には隠れていた意味が、何かしらその時の自分に最も適する形で姿を見せてくる、そうした体験が、クリスチャンならば誰にでもあるだろうと思います。それにより自分は新たな命を与えられ、今日も生かされているという実感を覚えることになります。
今日のあなたに、そうした言葉が与えられますように。そして、言葉である神との出会いが、ありますように。