きびしい小学生

2020年8月28日

教会学校もまた、苦境に立たされていると言われます。ただでさえ子どもの声が教会から聞こえなくなってきている時代の中で、このコロナ禍、なんとか礼拝は開けたとしても、責任をもって子どもを預かるのは難しいと、教会学校が開けないところが殆どではないかと思われます(実態と違いましたらすみません)。
 
教会学校の教師の皆さんも、祈りつつ、また機会があれば福音を語っていることでしょう。ただ、子どもたちに福音を語るということを、ちょっとした練習台のように見なしたり、まあ誰にでもできるから、と信徒に勧めたりすることが、ないわけではありません。子どもたちに語るのは簡単なこと、あるいは失敗しても許されること、のような感覚が、どこかに忍び込んでいる可能性が否めない、というのは偏見でしょうか。
 
中学受験のために、作文の授業というのがあります。一部の中学受験で必要なのです。いろいろなテーマに慣れさせて、とにかく書かせて、実地に直していくということが一番の対策なのですが、うまく指導していると、実によく自分の考えをマス目に映しだしていくものです。子どもたちの考えていることが如実に現れる場所だと言えると思います。
 
「社会のきまりやマナーについて思うこと」というテーマで書く機会がありました。自分の体験を踏まえて、など条件はありましたが、このときには、原稿用紙一枚くらい、たっぷりと書くことが許されていました。いつものようにメモをさせ、組み立てを考えてから、六年生たちはどんどん書いていきます。
 
さて、そこに書かれていた題材は、確かに世の中でよく見られるものでした。子どもたちは、大人たちのよくないところを、実によく見ています。気づいている、というばかりではありません。それに対して、なんとも厳しい意見をもっているのです。
 
犯罪ではありませんが、マナー違反ということがそこには取り上げられていたわけですが、「こんなこと、ありえません」「このような悪い人間は」「人間ならできないこと」のような言葉が飛び交います。「社会の迷惑です」「こんな人はいなくなってほしい」など、ストレートすぎて、作文としてはかなり過激な姿を呈するようにもなり、本人も書いていくにつれ、どんどん気持ちがエスカレートするように見えました。
 
これはたまたま一人がそうだった、というのではありません。教室にいた全員が、この調子なのです。ちゃんと社会を見ているし、善悪を意識しているのだということがよく伝わってきました。そして、確かにその大人に対して子どもの自分が注意するということは難しいことを自覚し、「将来おとなになったら、そんな人に注意をしたい」というような結びになる作文が殆どでした。
 
如何ですか。まさかそんな厳しいことを、とお思いでしょうか。でも私にも思い当たるふしがあります。子どものころ、信号が黄色で通過した車に対して、横断歩道脇で、子どもたちは皆指さして「信号無視!」と叫んでいたのです。運転する側に立てば、黄色で通過というのは当然ありうることですが、子どもたちは、黄色で「止まれ」だと学んでいますから、通過する瞬間に黄色であれば、信号無視というレッテルを貼って当然なのです。
 
私が小さいときの子どもと公園で蹴り合っているとき、小学生が、ここでボール遊びをしてはいけない、とかなりきつい言い方で注意しに来たことがありました。公園でにはそのようなきまりが掲げられていることはありませんでした。どうやら、その小学校では、その公園ではしないようにしましょう、と言われていたようでした。そのことは、気になって小学校に問い合わせたことから分かりました。その小学校だけのルールだったようですが、小学校に関係のない人にも適用されるものと理解したのだと思われます。
 
大人どうし話し合っているときにはニコニコしているのに、家に帰るとその人の悪口を言いまくる、というような、ありがちな大人の姿を見て、ある子どもは、「大人の心は汚い」と心に憤っていました。けれども教会でのお話を聞いているとき、その汚さが自分にもあると気づかされた中で、キリストに出会うこととなりました。
 
大人どうしならば、そういうものは当然あるものとして、ある意味でお互いに許し合って、表面を飾るということがあります。また、相手にはまた自分とは違う事情があるのだろうということを想定もします。それからまた、社会で迷惑行為をしている人がいたとしても、大人だからと簡単に直接注意をしにいくことの危険性も弁えています。
 
けれども子どもたち、とくに小学生あたりは、これらがありません。学校の先生に習ったとおり、それがこの世の中の掟であることを堅く信じています。そして、それにそぐわないことを厳しく裁きます。「いけないのに」と。
 
小学生にそういう教育をすることは、大切なことです。そのような、どこか純粋な考え方というものが、後に、社会悪に対して「NO」と言えるような態度を産み出していくのは本当だろうと思います。けれども、中学生あたりから、世の中にはいろいろな立場や考え方があり、四角四面なきまりで何もかも判断する訳にはゆかないということを察してきます。自然に、それを覚えて、ひとは大人になっていくわけです。そして、なかなかそれができなかった人が、大人になっていくときに、周りの人とうまく折り合いがとれなくなったり、最も不幸な場合には、事件を起こしてしまうということもないわけではありません。こういう人の「真実な」姿勢を理解したいものだと思います。
 
そして、教会学校で小学生に語るということを、大人に対するように「ごまかし」半分でやってはいけない、ということが、お分かりになれたらと思います。子どものためのメッセージを礼拝の中でもつ教会もありますが、ある教会では、大人の顔色を窺いながら、時に照れたり、冗談めいた言い方をしたりして、顔が明らかに大人の会衆を気にしているというものばかりでした。肝腎の小学生の顔に向けて、「真摯に」語るというものでなく、建前のような気持ちで話をしていることは、小学生たちにはバレバレでした。これは自分たちへ向けての内容の話ではなく、大人に向けての話を、ちょっと小学生にも意味が分かるような言葉を使って話しているだけなのだ、と。
 
小学生に語るには、何の建前も衒いもなく、真摯に、語る者自身が強い信仰と情熱をもって語らなければなりません。これは、小学生に勉強を教えていても全くその通りのものです。教会学校に子どもたちが来るというのは、この真剣な求めや判断をする小学生に対して真っ向から対面して、真摯に対応するということがあってこその出来事です。福音を福音として、真剣に語る場、実は礼拝説教もそのようであるべきなのですが、時に笑いをとったり、そうはいかないですけどね、と照れたりするのがしばしばです。となれば、それ以上に、子どもたちに対しては、ガチで挑んでいかねばならない、ということを申し伝えた次第です。



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