【メッセージ】言うことを聞かない者
2020年8月23日
(出エジプト6:28-7:7)
わたしが命じるすべてのことをあなたが語れば、あなたの兄アロンが、イスラエルの人々を国から去らせるよう、ファラオに語るであろう。しかし、わたしはファラオの心をかたくなにするので、わたしがエジプトの国でしるしや奇跡を繰り返したとしても、ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。(出エジプト7:2-4)
モーセが神に呼び出され、神の名を受けて、イスラエルの民をエジプトから脱出させる使命を与えられたときのことです。すでにモーセは、主に逆らって、イスラエルの民が信用するはずがない、と言います。主はモーセに不思議な杖を与えました。まるでファンタジーです。その魔術のような技を見せられてもなお、モーセは神に抵抗します。自分は喋りが得意でないから、その任務には就けない、と抵抗するわけです。このとき、アロンという兄がいることをモーセに思い起こさせます。
4:14 主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。
4:15 彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。
4:16 彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。
4:17 あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。」
モーセはかつて、エジプトで殺人を犯し、そのためミディアンの一族に逃れていました。イスラエルの民を導くために、エジプト王と会うことなど、できるのでしょうか。誰もが思うこの疑問に対しては、聖書は一定の答えを出しています。王が変わったから大丈夫だ、と。
実はこの観、モーセの妻が奇妙なことをします。「血の花婿」事件ですが、神が理不尽なことをするのです。しかしそれを経てモーセは兄アロンと再会を果たし、二人してエジプト王の前に姿を表します。正直に、イスラエルの民を解放する交渉をしますが、余計なことをしたために、イスラエル人の労働は、ますます過酷な状況に追い込まれました。これではモーセは信用がた落ちです。もう誰もモーセの言うことを信頼して、エジプトを共に出て行こうなどという気持ちにはならないような事態となりました。
しかし主は、さらに具体的に、これからの作戦を授けます。民族を導く神自身について紹介しますが、モーセは同胞からの信用を無くしたばかりだったので、その作戦を疑います。でも主はそんなことにはお構いなしに「イスラエルの人々をエジプトの国から導き出せ」という命令をモーセに授けました。
聖書記者はここで系図を描き、モーセとアロンがイスラエルの民の由緒正しい家系に属するものであることを告げ、そして本日開かれた箇所にようやく流れこみます。そこでは先に二人に主の仕事が授けられた様子が、改めてまとめられているように描かれています。この後、直ちに二人はエジプト王の前に出ていき、いわゆる十の災いが始まりますから、ここまでの話をひとつ要約しているような箇所だと捉えて差し支えないだろうと思われます。
そこで、開かれた箇所をそのまま辿ることを今回は避け、着目すべきポイントを押さえていくことにしたいと思います。それは、ユダヤ文学に顕著な、挟み込みの構造です。最初と最後、二番目と終わりから二番目、というようなユダヤの祭器メノラーの枝のように、対応関係があるように描くことがある、という理解です。その対応関係があるであろうと思われるところを抜き出して、見渡していこうと思います。但し、これはメッセージですから、学問的な意味をもたせているつもりは全くないので、何もかもが正しいとは信じてもらいたくありませんし、逆にまた、すべてをただのデタラメだと軽蔑することも避けてくだされば幸いです。問題は、そこから私たちが何をどう受け止めるか、ということなのですから。
6:28 主がエジプトの国でモーセに語られたとき、
7:1 主はモーセに言われた。
……
7:7 ファラオに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。
この辺りの経緯の要約においては、まず主がモーセに語り、モーセとアロンがそれをエジプト王に語った、ということが分かります。詳しく言えば、神がモーセに言葉を授け、モーセがそれをアロンに教え、アロンが声に出してエジプト王に知らせた、ということになります。エジプトの言語で語ったのでしょうから、当地に住むイスラエル人はやはり当然話すことができたはずです。
続いて主の命令という観点から、この出来事がまとめられます。
6:29 「わたしは主である。わたしがあなたに語ることをすべて、エジプトの王ファラオに語りなさい。」
……
7:6 モーセとアロンは、主が命じられたとおりに行った。
見事に対応されていますね。それから、エジプト人が主とどう出会うか、が問われます。モーセは主の命令に抵抗するようにしていた、という点が普通強調されますが、問題はそこにあるというよりも、エジプト王がこの言葉を聞き入れるのか、主とエジプト人とが関係を築くようなことになるのかという問いかけをモーセはしている、と捉えてみたいと思います。すると、結論として、エジプト人は主の力を見せつけられ、この神と出会うことになります。それは、些か不幸な形であることになるかもしれませんが。
6:30 しかし、モーセは主に言った。「御覧のとおり、わたしは唇に割礼のない者です。どうしてファラオがわたしの言うことを聞き入れましょうか。」
……
7:5 わたしがエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」
だんだんと中央に近づいてきました。これからの出来事は、「イスラエルの神ないし民」対「エジプトの王ないし国」の図式の中でなされることを知らせているように思うのですが、如何でしょうか。主とモーセ、アロンが一本の筋の中で関わり、それぞれの役割が与えられます。こうして、主がエジプトを裁き、イスラエルの民は解放されることになるというストーリーが語られます。
7:1 主はモーセに言われた。「見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。
……
7:4 わたしはエジプトに手を下し、大いなる審判によって、わたしの部隊、わたしの民イスラエルの人々をエジプトの国から導き出す。
そして中央が、この一連の箇所の結論であり、重要であるため注目せよという箇所となります。この出来事は、この箇所を中心としていた、と理解するのが、この文化の中では自然なことなのです。
7:2 わたしが命じるすべてのことをあなたが語れば、あなたの兄アロンが、イスラエルの人々を国から去らせるよう、ファラオに語るであろう。
7:3 しかし、わたしはファラオの心をかたくなにするので、わたしがエジプトの国でしるしや奇跡を繰り返したとしても、
7:4 ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。
主の言葉をモーセが語る。それを兄アロンがエジプト王に語る。先に挙げられた図式がここに丁寧に、しかも簡潔に定められることになります。しかし、せっかく主が呼び出し、主の言葉をかたれと命じたのに、そしてモーセがアロンに語り、アロンがエジプト王に語るという展開までその通りにやるというのに、エジプト王をその言葉を聞かないのです。あろうことか、主ご自身が、エジプト王の心を頑固にさせるのだ、という裏を明かします。
モーセは神の命ずることをそのまま実行する。だが、そうして行ったことが、相手には通じず、何も功を奏さない。しかもそれは、神自らそのように仕向けるとネタばらしまでするのです。これはなんだかがっかりするようなからくりではないでしょうか。
ある人が神に出会い、神が牧師になれ、と声をかけて導いたとします。神の言葉を語ることで、多くの人を助けるのだ、と奮い立たせたために、苦労して牧師となりました。ところが、その牧師が神の言葉を語っても語っても、聞く耳をもつ人が現れません。しかも、それは神が、語る言葉を聞かないように操るのだと話すのです。こんな理不尽なことはないのではありませんか。神の言うままに従ったのでしょう? 私にはとても無理です、とまで拒んだにも拘わらず、宥め賺すようにして、ついに牧師になる道を進ませたのでしょう? それなのに牧師としての仕事がちっともうまくいかないことになると言い、しかも神がそのように導くというのです。もっと希望をもって牧師の務めを始めることができるように、祝福して然るべきところを、この牧師は最初から失敗を定められているのですし、神が失敗させると言われたとあっては、何のために牧師とさせられたのか、全く意味が分かりません。
すると信仰深い人が気づいて、慰めてくれるかもしれません。この直後に主は、「わたしはエジプトに手を下し、大いなる審判によって、わたしの部隊、わたしの民イスラエルの人々をエジプトの国から導き出す」(4)と言っていますよ、と。結局モーセが口で言ったことは、神の手によって実現を果たすのであるから、そうがっかりすることもないのではないか、と。
私たちは、そんな呑気な態度で生きていくことができますか。いま願えばいま叶うように求めるのが私たちではありませんか。いま願うことがそんなことをしても無駄だよ、と退けられたならば、信仰のやる気が失せることこの上ないのではありませんか。すべての牧師の方々にお尋ねしたいのですが、先の例のように、神に牧師になれと命じられ、あらゆる自分の望む道を棄てて牧師になっても、人は語る言葉を聞かないし、神が聞かないようにするんだよ、と言われて平気でしょうか。神はしかしあなたの語る言葉とは関係なしに、それらの人々を信仰へと導きますよ、という、神から見れば結構な筋書きが説明されたとして、満足するでしょうか。「なるほど自分の語ることは風のように空しく消えていくし、誰も聞こうとしないが、神はそれらの人々を救ってくださるのだ、アーメン、感謝します、神はすばらしい」という信仰を、どれほどの牧師が持ち、そのような牧師人生を好んで受け容れることができるでしょうか。
牧師という特殊な立場に偏りすぎたかもしれません。あなたの子どもはあなたの言うことを何も聞きませんよ。すべて逆らって育ちます。ただ、その子は世の中の役に立つ仕事をします、などと言われて、それなら育て甲斐があるので自分は子どもから少しも信用されなくても嬉しい、とにこやかに信仰深く語れる親が、果たしているでしょうか。少なくとも私は辛い、辛すぎます。他にも、あなたが愛した人はあなたを愛しませんが、他の人を愛して幸せになります、よかったですね、の美しい物語は、歌の中にはありそうですが、自分はそういう者になることを望みたくはないものです。
モーセの置かれた情況は、必ずしもこうした例とはぴったり重ならない部分があると思いますが、モーセがまるで道化師のように踊らされ、神の栄光のためとは言いながら、馬鹿を見るような役回りを演ずるように見えるのは確かでしょう。
ここで、先ほど記憶して戴いた、この場面での神の言葉の流れについて、再確認したいと思います。「主がモーセに語る。モーセがアロンに語る。アロンがエジプト王に語る」、こうでした。これは先の牧師の務めに照らし合わせるならば、「主が牧師に語る。牧師が信徒に語る。信徒が世の人に語る」という神の言葉の流れと重ね合わせることができそうです。この場面でモーセが牧師にあたり、アロンが信徒にあたる、そのように捉えることをまずお勧めします。
人々に福音を伝えるのは、牧師の仕事だとお思いかもしれませんが、概ね違います。牧師は礼拝の中で会衆に向けて神の言葉を語ります。語ることで、神の言葉は現実のものとなり、会衆を変えていきます。多くの場合は、そこにいるのは信徒です。そうでない人がいたとしても、しばしばそれは信徒が連れてきた人です。神の言葉により霊的に養われた信徒は、自分が生活する家庭や職場、学校や地域などで、ほかの人に福音を語る、こうして神の言葉は拡がっていく、これが基本的な図式なのです。伝道は牧師の仕事、とひと任せにすることほど、無責任で聖書を誤解している迷惑な信徒はありません。
しかし、牧師を特別な存在としないグループがあり、また私はそれでよいと思いますが、牧師と信徒との間に質的な差異を置く必要はありません。少なくともプロテスタントは、万人祭司を伝統的に掲げているとするならば、このの考え方でよいと思うのです。すると、この場面で、私たちキリスト者というものは、モーセないしアロンの立場にいる、という理解でよいでしょう。信徒は牧師を通してしか、神の言葉が与えられないわけではないからです。私たちは、時にモーセとなり、時にアロンとして、この世に福音を知らせるべき立場に置かれています。
だから、人々がその福音に耳を傾けないようなことが多々あると思われますが、それでもがっかりしないで、神がやがてその人をお救いになるということを祈って、水の上にパンを投げるかのごとく、淡々と自分にできる伝道を続けていくとよいのです――そういうメッセージも、ここから成り立つでしょう。でも、いいえ、いいえ、そんな、ともありなんという優等生の教えをここで聞くために、皆さんはここにいるのではないし、ここまで時間を費やしてきた、などとするつもりは、私にはさらさらありません。断じて、そんな「おりこうさん」の建前の話で綺麗事だけ言って終わりにしたいなどとは考えません。
ここまでの話を裏切ります。卓袱台をひっくり返すような真似をします。私たちは無意識のうちに、神の言葉を聞いたり、語ったりする、モーセとアロンの二人に、自分を見ようとしていたのではありませんか。私も、いままでそうでした。けれどもこのたびこの箇所を何度も何度も読み、神の言葉を聞こうとしているとき、自分の姿を思い知らされました。私はそんな役でここに登場はしていない、と。
聖書についていくらか聞き慣れてきて、また多少知識も身についてくると、私は分かったような口を利き、口先で気の利いたことを言うことができるようになります。人と話をしているときには、その場を取り繕うような言い方をして、神の厳しい追及が自分に届くことのないように、人の目をごまかすことくらいお茶の子さいさいで、自分が知るカッコイイ知識をこぼすなどして、尊敬を勝ち取るようなことも計算に入れています。
けれども、本当のところ、神からくるその言葉を、聞こうとしていない者、聞くことのできない者、聞いているふりをして実は耳を塞いでいる者、それが私ではないのか。そう、頑固に言うことを聞かなかったこのエジプト王の姿こそ、現実に私に一番そっくりな人物だとしか思えなくなってきたのです。
7:4 ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。
この王が主こそ神であることを知るのは、さんざん厄災が続き、エジプトが滅びそうにもなる中で、なおもモーセの言葉を聞こうともせず、エジプト全土の不幸を招き、最後には自ら海の藻屑と消えてしまう、その時でした。ああ、私たちもまた、そのように滅びの中で初めて、神が神であることを本当の意味で知ることになるのでしょうか。
いいえ。ここで、あの言葉が力を発揮します。
7:3 しかし、わたしはファラオの心をかたくなにする……
この私が神の言葉を聞かなかったり、逆らったりするのは、主がそうさせているのだ、という箇所です。これは驚くべき慰めです。私が神に逆らっているどうしようもない人間だということも、神がそうさせている、という可能性を明らかにしてくれているからです。もはや、それは私単独の罪ではありません。罪とは、悪いことをした、犯罪に手を染めた、という意味ではなく、神との関係において誤っている、ということを指します。神との間に、適切な関係が築けていない、それが罪です。私は、自分が神の言葉に従えないことを悔やんでいました。しかし、それは神がそうさせていた、という可能性をいま探っています。それはいかにも理不尽なことです。神学を突き崩すような、教義をばらばらにしかねないような、理不尽なことです。しかし、これはいま私には慰めになりました。私が従えないのは、私の罪ではない、と分かったからです。それどころか、神のほうから私に関わってきていることがはっきりしたのですから、神との関係が消滅しているのではないし、神との関係が崩壊しているのでもない、ということを知ることができました。神は私に干渉している。神は私に確かに携わっている。神との関係が切れてはいないし、なくなっているわけではない。神は私を愛しているに違いないし、神は私を導いていることが確実なのです。
ただ、かのエジプト王は、その後滅びの中に導かれました。不安があるとすれば、そこです。神の言葉を耳に入れなかったエジプト王は滅んだではないか。私たちはどうなるのだ。本当に神は見捨てないなどと言えるのか。そう、そこが問題です。しかしあのエジプト王は、主なる神との関係を一度も築くことがありませんでした。有り体に言えば、エジプト王は主を信じなかったのです。信仰、と喚んでもいし、信頼、という形で理解してもよいでしょう。エジプト王は主を信じなかった。主との関係がなかった。これが滅びの原因です。私たちは、確かに神の言葉を蔑ろにしていたかもしれません。けれども、いまここには、神を信じる道が与えられています。私はただのエジプト王で終わるのか、それとも主の言葉に向き合って、自分の問題として捉え、自分は神の前にいるのだと知り、神との関係の中に自分がいるというふうに、信じることができるでしようか。それがあれば、心配はないと思いました。神はまさに、その関係形成のために、私を頑固にしたに違いないからです。
7:5 エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。
「知る」という言葉には、しばしば、頭だけの知識ではなく、全人格的に出会うこと、深い交わりができ体験する意味を含んでいることがあります。「アダムは妻エバを知った」(創世記4:1)の有名な個所は、二人が夫婦生活を営んだ意味のほかの何ものでもありませんが、この「知る」と同じ語が、この「わたしが主であることを知るようになる」に使われています。エジプト人と主との関係への希望すら出てくることになります。事実、エジプトにはその後の歴史の中で、キリスト教の一派が確かに伝わり、今に至るまでコプト正教会(コプト派)が存在しています。また、聖書やその周辺の文献の一部を伝える大切な役割を果たしました。
私がこの聖書の箇所から受けたことは、とんでもない聖書の理解であろうかと思います。けれども、私を慰め、私を助けました。私は受けたことを、伝えずにはいられません。もしかするとほかの誰かも、いまここから力を受けて、その置かれた辛い立場から立ち上がることができる力をも与えてくれることだろうと思います。また、神の言葉を実は聞いていない自分の姿を思い知らされた人が、うろたえてどうすればよいのかと不安になった人がいるかもしれません。けれども、必要以上に怯える必要はありません。いえ、神を信頼する心がここで創られ、あるいは育まれて、喜びの中に招き入れられるまで紙一重だと思います。そうです。あなたがどんな惨めな状態にあったとしても、あなたがどんなに神に反している自分を嘆いたとしても、神はあなたを見捨てていない。あなたに関わり続けてくださっているのですから。