ALS患者の新聞記事からの考察

2020年8月18日

息子が課題だとかで、新聞記事を選び、それについての自らのコメント、それから友人なり家族なりのコメントをインタビューしてそれを記録、さらにそれを受けて自らのコメントを改善する、という一連の作業が言い渡されていました。
 
選んだ記事は、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の女性を取材したもの。詳述は避けますが、7月下旬、患者の女性から依頼を受け薬物を投与し殺害した嘱託殺人容疑で医師2人が逮捕されました。事件そのものは昨年11月、京都市の患者女性が嘱託し、宮城と東京の医師が実行したというものでした。
 
その女性とSNSで交流があったという、同じALSの女性が、取材に応じていた記事でした。自分も、死にたい。だが、交流しているとき、相手には生きてほしいと思った。そのような声が印象的でした。
 
息子は、医療従事者の母親でなく、哲学徒のはしくれの私にインタビューしてきました。私は特別に調べたり確認したりすることなく、印象としての私見を述べました。
 
問題を3つのレベルに分けてみたい。まず最初に、法的に問題になっている点が大きく関わるが、この医師たちは、殺人をしたということで逮捕されている。本人がいくら願ったとしても、積極的な(というのはホスピスのすることは消極的なそれと見られる可能性があるためだろう)安楽死は法的に認められていない以上、これは殺人の罪が適用されることになる。そこで問題になるのは、「なぜ人を殺してはいけないのか」ということだ。根底に、この問題があることは常に意識しておかねばならない。俗にいう「酒鬼薔薇事件」についてNHKで討論番組があった際、一流の文化人が居並ぶ席で、中学生が質問をした。「なぜ人を殺してはいけないのか?」 しかし大人たちは、誰一人これにまともに答えられなかったという。この問いは根が深い。簡単に答えられない、解決しづらい問いであるが、今回の嘱託殺人の事件についても、根底には、この過去から続く問題が頑として存在していることを忘れてはならない。
 
次に、この患者の苦しみというものについて、私たちなりに精一杯想像する必要があるに違いない点を指摘する。もちろん、いまの痛みが緩和され筆舌尽くしがたい苦悩がなんとか減じないかということが一番である。しかしそれが薄れたとしても、心はたまらないだろうと推測する。体がやがて動かなくなる、悲観するほかない事態だ。そこにまず関わる人格ある人間が誰かいることだろうが、世話をする人に申し訳ないという思いが患者に芽生えるだろうか。それともともかくそのまま体が機能しなくなるのを儚む思いしかないだろうか。その心理を想像するのも殆ど不可能だし、決めつけてはならない。患者であれ誰であれ、一人ひとり違うのだ。たとえば幼い子が不治の病に冒されているとして、母親が一緒にいるからと言葉をかけ受け容れることによって、不安ながらも、子どもは母親を信じていくことができるかもしれない。大人だったからかの患者はそのようなことは難しかったに違いないのだが、それでも、何かしら社会とうものがこの病気に対して全面的に肯定感をもつとか、全力で患者の味方になって応援するとか、そうした社会的背景が常識として存在していたら、もしかすると、ただ死にたいというだけの結末のほかに、道があったかもしれない。つまりは、その場に居合わせない私もまた、この患者の苦しみを助けられない責任がある、と理解しなければならない。そのような関わりを意識することなしには、この問題について話をする資格はない。いまこのような患者に死ぬことの選択をさせるような社会をつくってしまった私たちは、無関係ではないと思うのだ。いまこの社会がどうなのか、私がどのような社会をつくったのか、ということを問いたい。
 
最後に、たとえば私がそこにいたとして、信仰の話をすることができたならばどうなるか。患者はもちろん、受け容れてなどくれないかもしれない。けれども、同じ死すべき存在として、神がいて救う方であって、その赦しを経験するならば、与えられたこの世の生には希望が沿うているはずだし、希望することができるという信仰を、共有することができたとしたら、と考えるのだ。高みから話すのではない。あんたはまだ生きられていい、というように思わせるような話しぶりであってはならない。謙虚に、いやそんな意識すらないままに、あなたと私は同じと言えば同じなのだというあり方を真底信じたままに、それでも希望を懐いているのです、と告白し、その希望を患者を有することができたらいいと願うのである。こうして、未来への希望を苦しむ方にもたらすようなことができないか、それを熱意を以て考え、できることを実行したいと思うのだ。
 
このようにして、根底にある過去からの問題と、現在がどういう環境であるのかという問題と、未来に希望をもつ可能性の問題という3つの層で、新聞記事について考えてみるきっかけを掴むことができるかもしれない、というような話を私はしました。
 
ところで、医療従事者の母親は、後でこの問題を自分なりに考えて、感想を寄せてくれました。まず自分だったら間違いなく死にたいと考える、とする。しかし患者が自分でなく自分の愛する子であったら、生きていてほしいと願う可能性が高いだろうと想像する。嘱託殺人で逮捕された二人の医師は、医学を学んでおきながら生かすのでなく死へ至らせることをした、という点に問題があった。但し、ある意味で、患者の声に一番寄り添ったのは、この二人であったということをすべて否定することもできない。ALSに限らず、重篤な病気では痛みが増すと麻薬を用いる。すると痛みは取れるが意識は下がる。医療に何ができるか、何をもたらすか、常に問われているのであって、マニュアル的な解決があるわけではない。だから、その人その人の立場や人格に対して、精一杯想像しなければならない。あの患者は、どういう気持ちであったのだろう。想像しながら、考えていくしかない、それが私たちだ。その背景には、自分にこの生命が与えられているという事実とその重さ、そして神が造ったことの確信と、与えられる希望とを。医療従事者として、歪んだ考えに陥ることなく、ひとを助けたい気持ちがある、ということを信じていきたい。
 
痛みや苦しみからの解放として、死を望んだあの患者の意思を、私たちが安易に否定することはできないでしょう。もちろん肯定せよと言うわけでもありませんが、現時点でその求めを、こちらが生きていてほしいと願うという心情からだけで、否定するとなると、ますますその患者を押しつぶすことにもなってしまいます。では、当人の意思だから、ということを根拠にしようとすると、たとえば知的障害者などの場合が問題にもなりえます。いや、それは認めないのだ、ということになると、一貫した原則ではなくなってしまいます。それは、そうした方が教会に来て、洗礼を受けたいと言ったときにどう対処するか、という形で、いつでも教会に突きつけられている問題ともなりえます。もちろん、そのまま尊重しますよ、という教会も少なからずあることだろう。でも、辛いので殺してくださいと真剣な眼差しで頼まれたら、きっと否定するでしょう。あの患者の求めも、一方的に拒否することしかしない、ということでよかったでしょうか。ある牧師は、そこまでの究極の場面ではなかったとは思いますが、何もアドバイスもできず、ただ一緒に泣き続けるばかりであった、というふうに述懐していました。
 
ただ命は、失われたら取り返しがつきません。意思が実行されたら決定的な結果を生むことになります。どうしても慎重にならざるをえません。周囲の人は、必ず、生きていてほしい、と願うでしょう。でもそれさえも、エゴではないか、と自問すれば、エゴではない、と荒い息を吐くのがまさにエゴであることを告白してしまうことにもなりえます。果たして生命維持という時間的な基準で問題の解決を図ろうとするのか、幸福感という内面の問題を優先課題として掲げるのか、それによっても進む方向が変わってくるものと思われます。生きながらえるよりはいま死ぬほうが幸福なのだ、と言うその人の言葉を否定するだけの正義など、私たちは持ち合わせていないのです。
 
そこに居合わせたなら、人の出会いという枠組みの中での対応や関係もあることでしょう。問題は、その人とこの私との関係というところで、熟していくことになるのかもしれません。それはまた、私が神とどのように出会い、関係を与えられているか、ということに根拠をもつものであるのは間違いありません。そして、「なぜ人を殺してはいけないのか」という重い問いが底流にある中で、やはり神の声がかすかに何を響かせているのか、それを聴きとる努力もまた、要求されていることになるのでしょう。念のため申し添えておきますが、十戒にあるから、とか、そうされたら嫌だから、とか、そうすると社会が成り立たないから、とか、そんな「堂々とした」答えは、ここでは何の役にも立ちません。机上の理論で世界を知り尽くしたような顔は、傲慢にしか見えません。かつて実存などという言葉で表現しましたが、まさにここにいる現実存在のその人が受け付ける答えは、公式からの答えなどではないのです。思えば、その都度もたらされるその絶妙な答えを、福音書のイエスは、出会う人それぞれに、悉く与えていたような気がしてなりません。私たちの理想はあそこにあるに違いないのですが、それはまた、人にはできないが神にはできる、という結論しかないことをも、証明してしまうことになるでしょう。
 
ついでに言えば、聖書で神は「生きろ」「生かす」と言いつつ、「殺せ」と幾度となく命じていました。「なぜ神は人を殺してよいのか?」と問う中学生も現れるでしょうか。これにクリスチャンとして、適切に答えられるでしょうか。聖書の根底に潜んでいる問題であるかもしれません。こうして夏休みの宿題は、人生の宿題ともなる問題へのアプローチとなりました。



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