かけがえのない礼拝
2020年8月4日
以前、教会にIさんという高齢の女性がいました。茶系統でしたか、グレイでしたか、いつも着物に身を調え、中央の前から5番目くらいだった゛てしょうか、通路側の場所に座っていました。もうそこに自分の聖書を置いていたので、もはや誰もそこに座ろうとはしませんでしたが、たとえ聖書がなくても、いつも来ている人は、そこに座ろうはずがありませんでした。
祈り会にもよく来られ、牧師も送迎を心がけていました。バザーでは、こしらえた毛糸の洗い布(スポンジの代わり)を編んでくださり、わが家でも購入して愛用していました。
その淡々とした日々のあり方、礼拝への姿勢には、ずいぶんと教えられるものがありました。私はIさんによって、気づかされます。「礼拝が命懸けのものである」ということに。もうずいぶんな高齢であるIさんにとっては、恐らく、今日のこの礼拝が、人生最後の教会での礼拝になるのではないかというような思いあるいは覚悟というものが、おありなのではないだろうか、と勝手に推測するに至ったのです。もちろんそれは年齢だからもつべき思いであるというだけではないはずです。誰もが、そうなのかもしれないのです。明日の命さえ分からないのですから。しかしIさんにとっては、あの着物の着こなしにしても、にこやかな笑顔にしても、その礼拝を大切に大切にしているということは間違いがなかったと思います。
私たちはけっこうぼんくらで、今日は眠いから礼拝説教のときは悪いけど寝かせてもらおう、と子守歌代わりに説教を聞くこともあるし、気が乗らないからまた来週ちゃんと聞くからなどと神に向けて言い訳をして、ほかの気になることを考えてしまうこともあります。表立って礼拝を邪魔するような人はまさかいないだろうとは思いますが、ちょっとひそひそと隣の人と話をしてみるような様子が、ないわけではありません。
いや、そうじゃない。Iさんの姿に、決して説教を疎かにしてはならない、少しでも聞き逃すことのないように、ひとの話し声が妨げることのないように、誰もが気遣わねばならないし、真剣に聞かなければならないということを、覚らなければならなかったのです。身が引き締まるような無言の教育を、Iさんはしてくれていたように、私は受け止めていました。おそらくは、そのときの牧師も、そんなことは当然分かっていて、だから淡々とではあるけれども、毎週手を抜かずに説教の準備をしていることはよく伝わってきました。
Iさん自身、耳に難を覚えていたように記憶します。だから、牧師の語る説教がどのように伝わっていたのか、その音声通りであるのかさえ、私には分かりません。しかし、神の霊は伝わります。何の問題もなく、牧師の語るひとときの中で、いえその礼拝全体を通して、神はIさんと出会っていたのだということを、強く信じます。Iさんの礼拝は見事なものであったのだ、と。
Iさんはやがて天に召されました。献体に登録していました。医学のために最後の献げものをしたという意味だったのだと思います。教会での葬儀に出席しましたが、普通とは違う形の出棺となりました。
いまそこに出席を許されているその礼拝は、数ある中のひとつというわけではありません。かけがえのない、唯一の機会であり、またそう思うことが、霊とまことにおいて礼拝するということなのだと、いまもIさんが語りかけてくれてような気がしてなりません。いえ、ほんとうに、語りかけているのだと、思っています。