【メッセージ】悪役は本当に悪なのか

2020年8月2日

(出エジプト1:1-14)

しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、イスラエルの人々を酷使し、粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた。(出エジプト1:12-14)
 
「ヒール」と聞いて、まず何を思うか。「かかと」ですね。日本人だと、靴のかかとのことを思い浮かべるのが普通なのかもしれません。ところが「プロレス」あたりを背景にして「ヒール」と口にすれば、誰も踵のことなど考えません。「悪役レスラー」のことを「ヒール」と呼ぶからです。これは、どうもスラングで「卑劣な奴」のことを呼ぶのにこの語をあてていた時期があったらしく、プロレスをゆとりを以て観るようになってから、広まったように見受けられます。
 
変に実例を出すと、世代的な議論が起こりそうですから、やめておきますが、プロレスがひとつのショーである限り、善玉と悪玉がそこにいて、善玉が勝つという図式が、観戦者の溜飲を下げるものと思われます。如何にもの悪者のようなメイクをしたりマスクを被ったりして登場し、反則でヒーローを追い詰めるが、何かをきっかけにそれが逆転するというストーリーが基本なのです。プロレスも初期にはそのような約束事が一般的でなく、それこそ必死で力道山を応援していたようなことでしょうが、そのうちプロレスの成り立ちを知るようになってから、「悪役」としての「ヒール」のことが話題に上るようになったものと思われます。
 
そうです。もちろん、ヒールというのは悪「役」です。役回りなのであって、ショーが終わればそれなりにプロレス団体の中で仲良くやっていることを知っています。もし本当に仲が悪かったとしても、ヒールが人格的に悪辣で卑劣であるなどとは誰も考えはしないでしょう。それが一種の「演技」であるという理解は、演じている人の人格や性格をそのものとは考えないものです。映画でもドラマでも舞台でも、悪人を演じている人が、真底悪い奴だと思う人はいないはずです。
 
けれども、SNSというメディアが、ドラマの悪役を誹謗中傷し、死ねと迫り、その若い人が命を失うという事件が5月にあり、その話題が今年社会現象となりました。それだけ演技や演出がリアルだった、などと言っても、誉め言葉にはなりますまい。悲しい出来事でした。それが役であるということを明確に示すのではないタイプのドラマであったことも不幸な背景でしたが、やはり匿名な、お手軽な、凶器となる言葉による攻撃は、どう弁明したところで、認められるものではないと思われます。
 
ディスプレイの前で世界を見渡し、自分は世界から隠れているように勘違いし、また自分には何でもできる、世界を支配さえできるというように錯覚し、自分を神としてしまうような恐ろしい情況ができているのだと震撼します。と同時に、私も、私たちも、そのようなことをしていないか、よくよく考えていかなければならないものと思わされます。適切な批判さえ禁じたり、出せなくなったりするようなことはよろしくありません。でも、適切な批判ですら、それに傷つくということはあるのです。
 
さて、聖書にようやく目を移しますが、聖書の世界でも、ヒールがあるのかどうか、考えてみましょう。イスカリオテのユダが真っ先に浮かびませんか。いや、ユダは滅びの子なのだ、というのが従来の、あたりまえすぎる理解でしたが、近年になって、ユダとは何だろうかという議論が盛んになりました。ユダがいたからこそ、キリストの救いが成立した、などという点を考えると、いろいろ考えさせられることもあるのです。
 
バビロニア帝国、あるいは首都バビロンのことはどうでしょうか。北イスラエルからだとアッシリア帝国と呼ぶべきでしょうが、これらの大帝国は、イスラエルやユダのエリート層を捕囚として連行して国を崩壊させたのでした。これを「役」と呼ぶのは抵抗があるかもしれませんが、歴史のために、いえ神の計画の実現のために、その役回りをもたされた大国でした。
 
しかしその前にも、エジプト王国こそ、聖書の記述からすれば、損な役を与えられているのではないでしょうか。創世記で、ヤコブの子ヨセフが売られていったエジプトで、知恵を見出されたそまヨセフが、国王に次ぐ地位に就き、親兄弟を、飢饉のイスラエルからエジプトへ呼び寄せたという物語がありました。これから読む出エジプト記は、そこから数百年が経過したところから始まります。虐げられていたイスラエルの民族が、ここからエジプトを脱出して、神が与えると約束した地へ逃げていくストーリーが始まろうとしています。この出来事は、たとえば詩編でも多く触れられており、イスラエル民族にとり、エジプトを脱出するということは民族形成のために大きな意味がありました。それは幾度も幾度繰り返し口に上り、子孫へ伝えられていき、しっかりと繰り返し記憶に刻まれるのでした。
 
また、エジプトを出るというのは、イエス・キリストを信じる人々にとっても、意味のある出来事として意識されることとなりました。というより、今時分、キリスト教会の礼拝説教において、エジプトという言葉が頻繁に出て来ます。それも、「エジプトを出よう」とか「エジプトに戻らないために」とか、実に忌まわしい過去、救いのない世俗的な世界を指すものとして、「エジプト」が敵視されるという具合です。真の神を知らず、自分たちを虐げる、悪魔のような存在として、あの「エジプト」が持ち出されるのです。
 
どうでしょうか。何か気づきませんか。胸が痛みませんか。――アッシリアやバビロンとは違い、この「エジプト」は、現存する国です。「エジプト・アラブ共和国」というのが正式名称ですが、通常「エジプト」と呼んでいます。キリスト教徒は、礼拝において度々、「エジプトから脱出する」とか「もうエジプトには戻らない」とかメッセージを送っているのですが、このことを聞いて、当のエジプトの人々は、どのように思うか、考えたことがありますか。
 
もしも「日本」が同じように、あるいは自分の祖国の名が、このような悪者の国のシンボルとして用いられるのを見聞きしたら、どんな気持ちになるでしょうか。「さあ皆さん、あの不自由な日本を出て行きましょう。忌まわしい日本の王はやっつけられました。私たちもかつての日本時代の暗い過去を始末して、もうあそこへは戻らないようにして、神の恵みと導きの中を歩みましょう」というメッセージが、世界の教会のそこかしこで語られ続けているとしたら。それは決して気持ちのよいものではないでしょう。
 
歴史の中での事実なのだから、こだわる必要はない、と思う人がいるかもしれません。しかし、この数千年の歴史をもつ国が、ほぼ同じ名前で現存するとき、その名前をひたすら悪者の象徴として意気揚々と語ることは、私の感覚からすれば、抵抗があります。しかも、この出エジプトの出来事は、エジプト側の記録からの裏付けが乏しく、もしかすると歴史的事実とは言えないかもしれないし、少なくとも脚色があるであろうことは確実ですから、ある国の側の言い分である伝説が、いまもある別の国をただの悪者として扱ってしまうようなやり方は、お互いに気持ちのよいものではないような気がしてなりません。エジプトという国はこのように、聖書世界においてすっかりヒールの役に置かれています。悪役も盛り立てるために必要だという意見も理解はできますし、現実のエジプトの国についていま言っているのではないことは百も承知です。皆さんはどんな感覚をお持ちですか。
 
それでもここでは「エジプト」と連呼しなければなりません。心苦しく思いますので言い換えつつ話を進めますが、時にこの固有名詞は出てくることでしょう。ご寛恕を願う次第です。
 
先ほども少し触れましたが、ここへ至るまでの歴史を概観します。創世記によると、イスラエルの祖先として、アブラハムが西の地方からイスラエルの地方に移り住んできました。その子イサク、ヤコブと安定した地位をその地域でこの一族は築いてきました。ヤコブの末の方に近い息子ヨセフが行方不明になりましたが、実はエジプトにいて、いろいろありましたが、やがてエジプトのナンバー2になります。これは神のはからいであったように創世記は描いています。イスラエルで飢饉が起こり、それをきっかけとしてヤコブとその息子たちは、エジプトに助けを求めます。最初は気づきませんでしたが、ついにヨセフは身分を明かし、親兄弟との再開を果たすことになります。
 
出エジプト記は、このヤコブの息子たちの名を挙げます。これはイスラエルの部族の名として残ることになります。この一族は、かの地で力強く増えていきました。かつてアブラハムに神が、「あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう」(創世記22:17)と約束したことへとつながるようにも見えます。
 
しかし、時代は忘れ去られる運命にあります。いったいこの民族は、やたら増えて、我が国を脅かす存在になった、と疎ましく思われるようになってきました。元々の自国民の労働環境にも影響を与えるでしょうし、もしこの移民が結束して反乱を起こしたら、国家の危機ともなりかねません。しかし一旦住みついたこの異国民は、壁をつくって侵入させなくするというわけにもゆかないのです。
 
現代、この移民・難民問題は深刻です。人道的に受け容れようという国もあります。しかし、何らかの負担を強いられることに加え、政治的・経済的に大きな影響を及ぼすことが懸念されるようになると、外国人を受け容れられない、という声が高まるようにもなってきています。この点についての、政治的な問題を考えはじめると、ちょっと収集がつかなくなりますので、これ以上はこの場では進めないようにしますが、しかし無視してよいことでもないし、私たちが皆で考えなければならないこと、実践しなければならないことです。どちらかというと、日本は外国人を受け容れることについて、抵抗を覚えがちな伝統があります。島国ということが、いっそう、自国民と外国人との差異を際立たせてしまう傾向があるからです。さらに、経済的な問題はいっそう困難をもたらします。
 
要するに、エジプトも必死だったのではないか、ということです。国民の支持を得るために、国に拡がったイスラエル人たちを排除することが求められたということを、一概に非難することはできない、と考えてみたいのです。
 
1:8 そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、
1:9 国民に警告した。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。
1:10 抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」
 
これがいま私たちの身の回りで起こったらどういうことになるか、想像するならば、この警告は必ずしも冷酷なものではなく、非常に現実的な考え方であるということが理解できるのではないかと思います。
 
しかしエジプトは人道的な対処をしたと理解されます。国外退去を命じたわけでもないし、命を脅かしたわけでもありません。そもそもこの国では、ピラミッド建設についても公共事業ではなかったかと近年見られているほどに、経済政策がしっかりしていました。だからこそ古来長く続く大国として続いてきたとも言え、内部的な争いはいろいろあったものの、概ね安定した国家基盤をもち、外交もこなしていたのです。
 
1:11 エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。イスラエルの人々はファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスを建設した。
 
ここでも公共事業のために、イスラエルの人々を活用しています。イスラエルから見ての表現としてそれを「虐待」と記していますが、確かにあのかつてエジプトを飢饉から救った宰相ヨセフの子孫だという意識が忘れ去られている中では、扱いは乱暴であったかもしれません。
 
こうしたことは歴史の中にいくらでも見つかります。渡来人として文化をもたらした大陸の人々に対して、文明開化を果たした日本がどんな仕打ちをし、偏見をもつようになったか、それは今なお、一部の新聞などの高圧的な言論の中で助長されているのを見ても、どうにかならないものかと思います。差別と偏見は、自分たちの正当化のため、民族意識や結束のために、歴史の中でも耐えることがない現象です。男女差別や少数者の差別も留まることがありません。さらによくないのは、教会が、そうした差別に反対すると言いながら、肝腎の自分たちがその差別を行ってきたということについて、忘れたふりをしているということです。聖書を信じ、聖書を以て政治的方針をつくってきた社会が、かねてから、女性差別はもちろんのこと、少数者を虐げてきた歴史を直視することなく、いま流行りのこのムードに乗って、自分たちは弱者の味方です、と善良なグループであるというアピールを、如才なくやっているところに、私は危機を感じます。
 
そうです。このイスラエル人を虐げたと称される王や人民は、私たちの姿なのです。私たち自らがこうしたことをしてきた、そのことを悔い改めるどころか、気づきさえしないで、教会はひとを大切にするところです、とにこやかに宣伝している場合ではないと思うのです。私たちは、差別と偏見を行ってきた、そうした宗教をいま信仰している、という立ち位置からスタートする必要があると思うのです。
 
いま「虐待」(11)と言いました。この後「嫌悪」(12)、「酷使」(13)、「脅かした」(14)、と立て続けに、イスラエル人に対してやってきたことが並びます。これらはもちろん、イスラエル側からの被害的な眼差しに基づいての表現です。つまり、虐待している側、嫌悪している側、酷使している側、脅かしている側、こちらからは、決してそのようには感じていないという構造があることに、気づかなければなりません。自分のほうは当然のことだと感じている中で、「過酷を極めた」(14)ことがいとも簡単にできるのです。
 
それは特別な悪人だから、なのではありません。第二次世界大戦時のナチの将校アイヒマンの裁判に立ち会った、ユダヤ人の哲学者ハンナ・アーレントの著作が、世界中に大ブーイングを巻き起こしたことを思い起こします。アイヒマンは、アウシュヴィッツ強制収容所へユダヤ人を大量に移送し虐殺へと導いた重要人物でした。当時この極悪人の裁判に、連合国側が注目していたのはもちろんですが、その裁判を通じてハンナ・アーレントは、アイヒマンは極悪人などではない、と言い切ったのです。「彼は特殊な人間ではない、ただの凡庸な一般人」であるのだ、と。そんなはずはない、と世界はいきり立ちます。しかしユダヤ人として、腸が煮えくりかえりそうなほどに強制収容所での虐殺に対する裁判を見ていたであろうハンナ・アーレントでしたが、悪というものは実に凡庸なものである、と指摘するのです。「アイヒマンはただ命令に従っただけ」で、彼の行った罪は「誰もが持つ凡庸なもの」である、と言い、「アイヒマンは愚鈍なのではなく、奇妙なほどにまったく〈思考すること〉ができない」のだと指摘します。
 
歴史上これ以上ないほどの残虐なことを行ったのは、根っからの極悪人に違いない。そんな私たちの常識を撃ち破るこの指摘に、私はひじょうに共感を覚えます。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と、十字架の上でイエスは口にしたと伝えられていますが、私たちは自分がしていることを分かっていない、という点をこんなにも切なく、苦しく、しかし強烈に告げ知られる場面もないでしょう。自分は善良だ、自分はとりたてて悪くない、そのような思い込みで、私たちは自分の精神を護っていますが、どんなに悪辣なことをしているときにでも、そのような自己防衛心理がはたらいて、そのままその行為をエスカレートしていってしまうのです。
 
だから、「いじめ」が人を傷つけ、追い詰め、殺しもするし、「しつけ」という名で、虐待をしてしまう。それが人間です。事件で報道された一部の、あの人たちだけがそうなのではないのです。私たち人間は、自分では自分が正しいことをしている一心で、とても非人間的な、残酷なことが、実は平気でできているし、やっている可能性があるのです。私たちは聖書から、そのような構造に気づかせてもらう必要があります。聖書の言葉を使って、他人を追い詰めたり、いじめたりすることさえ、いくらでも世の中では行われています。いえ、教会の中でもそれはあります。その一つの姿が「さばき」です。聖書の言葉は真理だ、自分はその真理を持ち出す、その真理はあなたを罰する、と突きつけ、そのくせ、自分は正しい、という前提の中でほくそ笑むことが、私たちにはできてしまうのです。
 
気づかれた方もいらっしゃると思います。イエスは、ファリサイ派の人々や律法学者たちをあれほど強烈に非難しましたが、彼らのしていたことが、まさにそういうことだったのです。私たちは現代のファリサイ派として、ふんぞりかえって他人を見下していないでしょうか。省みてみたいと思います。
 
出エジプトの出来事の前提となる場面を今日は見ました。そこで私たちはしばしば、虐げられているイスラエルの人々に身を寄せてこの箇所を読みます。それもよいことです。しかし、敢えて今回は、私たちは悪気なく、無邪気に、誰かをそのように追い込んでいるのではないか、気を配ってみたい、という考えを申し上げました。これは演技としての悪役ではありません。私は本当に、悪なのです。実に、このような角度で見ることなしには、私たちには救いがなかったものだ、ということに、最後に触れておきます。なぜならば、イエスを十字架につけたのは、この私であったからです。少なくとも私はそう捉えているからです。だからこそ、イエスは私を救ってくださったのです。



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