決めつけ
2020年7月31日
具体性のない話ですみませんが、息子から、「決めつけないでくれ」と抗議されたことがあります。こちらはそんなつもりでないにしても、相手からはそのように見られる。つまりは、「分かったつもりになってものを言っていた」のは確かなのだと思います。「君はこう考えるだろう。だが……」という言い方をすること自体、相手の考えを決めつけているからにほかなりません。
これは、何かしら上の立場からものを見るときにありがちな姿勢です。相手からその心の中を聞き出す、ということを、精神医療の現場では目指すことがあるだろうと(これも決めつけているのかもしれない)思いますが、そんなときに、こちらが、「君はこう考えているよね」と言った態度で向き合っていると、必ず察知されてしまうことでしょう。「色眼鏡」をかけて自分を見ている、というふうに見られると、ひとは決して心を開くことはしないでしよう。少なくとも、本音を教えてはくれないでしょう。こういうものだと決めつけられた中でものを言われたくはない。いや、それは誰でもそう思うことでしょう(とまた決めつける)。
対話をしていけば、その都度相手の意向を訊くことができます。プラトンの対話編はまさにそのようにつくられたドラマですが、もちろんプラトンの仕組んだ通りに話は運ぶ、それは確かですけれども、時に、その主人公ソクラテスの哲学的主張とは食い違う結論に、対話編の中のソクラテスが自ら誘い込んで途方に暮れているようなこともあるので、必ずしも意図通りに対話が運んでいないのかもしれない、と思えます。ソクラテスが巧みに問いかけることについて、相手が次々と反抗したり、嫌気がさして対話を退いたりすることもあります。しかし、こうした事情も、対話という方法が、モノローグとは異なり、相手の反応というものによって耐えず方向舵が変わっていく可能性があるということを物語っていることの証拠になるかもしれません。
そこへいくと、ひとりで書き綴っていくものは、自分が相手の気持ちを察して書き記し、それに対して反論をしていく、というようなスタイルになることもありえます。こちらが一方的に対話を成立させるしかないので、相手が別の場で書いていることを引用して、それが何を言っているかという事実について議論しているつもりが、それはこういう意図で書いたのだろう、と決めつけてしまうことも、大いにありうることではないかと思います。
お菓子をもらうと子どもは嬉しいよね。しかしこの子の場合はそうではなかった。なぜかというと……。
恰もその子が特別な見方をしたり、背後に何らかの経験をもっていたりして、お菓子をもらっても喜ばない事情があった、ということが言いたいのです。でも、本当にこの持ち出し方でよかったのでしょうか。子どもがお菓子をもらうと喜ぶ。これは、この筆者の「決めつけ」に過ぎないのではないでしょうか。確かに、多くの読者は、そういうものだろうという「常識」を認めるでしょう。だから筆者はこれを「決めつけ」ているつもりではなく、「常識」としてここに挙げたに過ぎなかったのだろうと思います(と決めつけてしまってすみません)。
ところが昨今の子どもたち(その「子ども」と指しているのがどのくらいの年齢かによってもまたいろいろだろうと思いますが)は、ふだんお菓子には事足りています。いえむしろ、飽き飽きしているくらいかもしれません。また、知らない人にお菓子をもらうということには警戒するように教えられている場合も多々あります。毒入りのお菓子の事件もありました。「お菓子をもらう」ということは、昨今の多くの子どもたちにとって、懸念の対象ではあっても、喜ぶべき事柄では、もうないという時代状況があったとすると、あの筆者の論理は、全くの「決めつけ」から始まっていたことになりはしないでしょうか。いまの教育制度や教育現場は、その親世代のものとはまるで違うものばかりです。「昔はこんなだった」を子の前で言ってはならない、ということは、保護者を相手に必ず言うことです。まして、「こうすればいい」を「決めつけ」て親が言い渡すことは論外です。何も事情を知らない親が、タブレットやスマホは勉強の邪魔でしかない、などと(買う余裕があるのに)「決めつけ」るのは、子どもや学校の事情、つまり現在の「常識」を全く知らないで親が、ずれた「常識」を掲げて権威を保とうとしているだけの愚かな事態を招くことになりかねないわけです。
キリスト教は、苦難の中に喜びを見出す宗教です。こんな教えは、世の中にはありません。
この通りではなくても、こんなふうな形で伝道しようとする人がいます。あるいは教会があります。「皆さんはこういうとき、こんなふうになるでしょう。でもキリスト教はそのときに世間とは違ってこんなふうによいものなのです」と宣伝しているつもりなのです。この形式の誘い文句、実はたくさん見かけます。書いた方がそんなつもりでなくても、そのような気持ちで聖書や教会へ誘っていることがあるような気がします(と決めつけはしないつもりなのだが)。
そうでしょうか。苦難の中に喜びを見出すなど、どの宗教でも言っているに等しいようなものではないでしょうか。この宗教を信じれば金持ちになれます、病気が治ります、苦しみが去ります、確かにそのような言い回しをするものもあるでしょうが、そういうのが胡散臭いことくらい、人々は知っています。宗教がもたらした事件もよく報道されていますから、御利益宗教への警戒は半端ないものです。キリスト教は「御利益宗教」を攻撃します。「偶像崇拝」を非難します。しかし、当の宗教側でも、自分たちを「御利益宗教」あるいは「偶像崇拝」などとは考えていないことが普通でしょう。一般の人も、「偶像崇拝」を非難するキリスト教に対して、了見が狭いという感想はもっても、なるほど正しい、と旧約聖書の預言者の論理を持ち出す人は、そうお目にかかれるものではないでしょう(と決めつけるのもいけないかしら)。
普通ならこう人は考えるでしょう。しかし聖書は違います――こう言いたくなるのです。気持ちは分かりますが、それはキリスト教会から見れば拍手を贈りたくなるかもしれませんが、教会の外から見れば、「決めつけるなよ」と言いたくなるものではないでしょうか。自分たちはそんなに軽薄ではないよ、もうちょっといろいろ考えているよ。苦労は買ってでもせよ、のような諺もあるよ。可愛い子には旅をさせよ、とも言うよ。苦難あってこその喜びというのも、昔からの知恵にあるものだよ、知っているよ。こうした「常識」を無視して、教会側の都合のよい「常識」を基準にして、「ひとは苦難があれば悲しむだけに違いない。まさかそこに喜びが伴うなどとは夢にも考えないだろう。だから聖書の凄さを教えてやろう」というような、高いところから見下ろすようなあり方が潜んでいないか、考えてみては如何でしょう。
教会の論理が「決めつけ」た「普通」という「常識」、それは本当にそうでしょうか。私はここで「決めつけ」ないように気をつけたいと思います。それぞれが考えてみるとよいことだと思っています。私は常に、そのような提言をしているつもりです。ときに「決めつけ」たような言い方もしてしまいますが、概ねそうではないというのが実情です。この「決めつけ」が、いわゆる「裁き」に直結するものだというふうにも、考えるからです。とにかく私たちは、まだ考え直す機会が与えられていると思うのです。