夏期講習の受験生のために

2020年7月23日

夏休みなんだか、平常なのか区別がつかない時期が始まりました。春に、とてつもなく暇な――語弊がありますが――時間を与えられ、非日常的な生活を強いられていたことのツケがまわってきたとも言えますが、仕事ができるだけまだ恵まれているのでしょう。休業要請があり、一時はどうなることかと案じられました。しっかりした経営能力のある会社は、その点厚く扱ってくれまして、生活も助かりました。
 
いわゆる「夏期講習」が始まりますが、小中学校も授業が組まれているところが殆どなので、学期中のように夜に講習をするほかなくなります。生徒たちにとっては、学校と塾と、たいへんな毎日を過ごすことになります。
 
子どもたちは、大人のように、思っていることを言葉にして出すということができない場合があります。表現できないという意味と、発言権がないという意味とです。理屈で説明できないから、行動で出すという場合もあり、昔から「不良」とか「非行」とか大人の側では称していましたし、「言いたいことがあるなら言え」などと高飛車に構えて抑圧していたりしたものです。いまの子は反抗を露わにせず、耐える傾向にあるため、その抑圧が精神的にマイナスのものとして出てくることがしばしばあります。ストレスと呼ぶこともありますが、元来「ストレス」は人間の精神にとり、必要なものどあって、安易にこの言葉を悪いことのように言うのはよろしくないと考えます。それよりも、もっと悪い意味で、心が潰れていくということも懸念されるのです。
 
具体的に言うと、大会やコンクールが中止となり、中三生はすでに部活の目標を失って、受験勉強をするしかなくなっています。しかも一学期の半分は、リモート授業やプリント学習だけで、かなり不安があります。そもそもリモートのできる環境に皆があるのかどうかも怪しいのですが、たとえ環境があっても、その態勢で学習に対応できるということ自体が、すでに一定の能力や性向に基づいていると考えられ、ひとりで学習などできない、あるいは効果がない、という子がずいぶんたくさんいたのではないかと懸念されます。つまり、受験生にとり、中三生の初めという大切な学習の時期でハンディキャップを負っていることは否めないということです。それでも、そのような弱音を吐くことはまずありません。吐き出せないものが、内に溜まっているものと思われて仕方がありません。
 
私は現場で、彼らを励ますのが役割であろうかと考えています。いわばずいぶんと傷を負ったその心を開き、前向きに自分で歩いていけるように、いわば励ますのでありますが、単純に励ますのが良いとばかりは限りません。心の病の状態では、励ましは禁物というケースもあるからです。
 
そんなとき、まずは肯定感をもってもらうことが大切になります。「それでいいんだよ」のスタンスからものを言うようにしたいと思います。「なにをしているんだ」「それではだめだ」式に、発奮することを狙う指導法は、近年は学校現場では基本的になされません。一部の芸事や文化技術、スポーツの世界では、そうした鍛え方があることは認めますが、この新型コロナウイルス感染症によるダメージを受け、なおかつ制度上はなんの変化もなく受験という事態に突入している子どもたちを相手にする場合は、「それでいい」と、自分で立ち上がり歩めるように呼びかける、そこからが指導者の仕事となるはずです。
 
でも、ただ優しく呼びかけるだけでよいわけではありません。甘やかすわけにはゆきません。「さあ、やるんだ」「このようにやっていこう」と的確に導く必要があります。呼びかけて受け容れるところから始めますが、決して安楽ではない道を進んでいけるように、しかし指導者が替わってそれをしてやれるわけではありませんから、何かのときには頼っていいから、常に味方であるのだから、と精神的に支える存在となろうと思うわけです。
 
いえ、信仰の話をしていたつもりではありませんけれども。



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