エンパシー (ブレイディみかこさんと奥田知志牧師)

2020年7月19日

せっかく購入したので、いろいろ目を通している『文學界』8月号ですが、連載されている、ブレイディみかこさんの文章に共感しました。連載タイトルは「アナーキック・エンパシー」(他者の靴を履くための考察)という具合で、ベストセラーとなった『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の中でも非常に印象の強かった「他者の靴を履く」ということを膨らませた内容となっています。
 
今回連載第五回ということで、まずコロナ禍の中で、「女性の政治指導者」に注目していました。その指導する国々が、早々にコロナ感染拡大を収束させている事実を挙げるのです。男女の性差を述べているのではないということに慎重に言及しながら、女性の「エンパシー」の可能性を示唆します。それは生来の性差というよりも、男性指導者に、ジェンダー・イメージに囚われてエンパシーを封印することで失敗している可能性を示唆します。男性がそれをすると、社会的に不利な立場に立ってしまうのではないか、と。
 
ここでご存じない方に、「エンパシー」について触れておく必要があるかと思います。「empathy」と綴る英語ですが、「sympathy」との比較がよく話題になります。ギリシア語の「pathos」(感情・苦悩)に由来するであろう「pathy」に付く接頭語の違いとなります。よく学習上でも重要とされる「sympathy」は、「syn(m)」つまり同じくギリシア語由来ですが英語の「with」のように「一緒に」を付け加えています。みかこさんが息子の出来事を通じて著書で強調していたのは「empathy」で、「en(m)」という、英語の「in」にあたる語が付いています。どちらも「共感」のような意味で使えますが、前者はとくに「同情」の色が濃いとされています。学校でこの違いを問われた息子が、「empathy」について、「他人の靴を履いてみること」と答えたことに、母親であるみかこさんが感銘を受けたというようなことが書いてあったのです。つまり、ただ眺めて気の毒に思うというだけでなく、実際に自分もその悲しみを覚えること、感情移入することなのですが、おそらく良心から、苦しんでいる人に「寄り添う」と口にする人々は(私はこの言葉を簡単には使いませんが)、この「empathy」を感じているのだろうと推測します。
 
さて、エッセイでは、女性が、論争に「勝たない」スタイルで人々を率いても「弱い」と言われないので、そのスタイルが取りやすいのではないか、と書かれてありました。それから、発達心理学者のコーエンによると、邪悪な人間というものは存在せず、「悪」という言葉を「エンパシーの欠如」という言葉で置き換えようとしたことを指摘しています。この後の文章については辿ることをやめ、関心をお持ちの方はどうぞ本誌でご覧ください。但し、結論敵なところについては、共に考えてみたいので引用します。
 
自分と違う人間を理解するためのエンパシーとは、自分を手離さず、自分と他者の違いを守りながら、他者の靴を履く能力だ。
 
筆者の論旨を辿らないと、急にこのように言われてもピンと来ないかもしれませんが、深い――そしてまた当たり前のことを確認させる――言葉だとお感じになりませんか。私たちに必要な知恵だとお考えになりませんでしょうか。西洋思想の伝統は、「他人に共感する」という、このことを、実は殆ど正面切って論じるようなことがなかったのです。
 
先週の朝、北九州の奥田知志牧師がEテレ「こころの時代」で「今 互いに抱き合うこと−コロナ禍に読む聖書−」と題した番組の中でいろいろと語り、またそのホームレス支援活動「抱樸(ほうぼく)」(NHKの番組紹介サイトで、この「樸」の漢字が間違っているものがあります。正しくは「きへん」です)の姿が映し出されていました。
 
外からのものが人を汚すのでない、内から出るもののことを考えよ。そう、私たちは外からのウイルスに病んでいるのではない。洗って排除することに熱心な私たちはいったいどうなっているのか。そんな問いかけから番組は始まりました。そして、隠れたところにおられる神に祈れというイエスの言葉を引いて、人に見られることを気にする必要はないから、人前で出せぬことでも神に祈ることの必要と、そのようなところに神が共におられるのだということの確認を強調していました。問題はその「関係」なのだ、と。孤立させない、排除しない。そこでこの活動の「抱樸」という言葉にこめられた思いを語ります。普段使われないこの漢字「樸」は、荒削りの原木を指す。とても抱擁できないようなささくれだったもの。抱くときっと傷つくだろう。人と人とが出会うとなると、傷つけ合うことは当然でしょうが、あなたを独りにはしない、という思いがこの活動の核心にあることを説明します。「こまっている人」がここにいるのに、私たちはつい「こまった人」にして、排除してしまう。そうして、津久井やまゆり園の事件――奥田牧師はこの犯人との対話をじっくり行っている――に触れ、障害者が不幸である、と決めつけられた命題を退け、障害者と共にいると「たいへん」であるのは事実だが、「不幸」ではないのだ、排除する必要はないのだ、と訴えました。
 
私たちは、なんとひとを排除してきたことでしょう。また、いまも排除しつつあることでしょう。新型コロナウイルスで距離をとる、それはまだ感染拡大を防ぐために必要なことであるのでしょうが、それを弁解条件のようにして、ひとを心の面でも遠ざけ、排除することを正義としてしまいそうになってはいないだろうか。そんなことを考えさせられます。奥田牧師はまた、キリストを引き渡したユダが、自分の誤りを謝罪した相手について問題を指摘すま。ユダヤ当局の人間たちにのみ、自分は間違っていたと告げた点でした。そこに問題があったのです。イエスにそれを打ち明ければ、赦しがあったかもしれないのに……。でも、私たちにはイエスの光がある。抱くことで自分も痛みを感じるが、遠ざけないことを配慮するそれだけのことでも、そこにエンパシーを覚えることで、この闇のような中で、輝く光を知ることができる、そんな希望をもつことが、赦されていることでしょう。欠片のような希望であるとしても、握り締めることができるに違いないでしょう。
 
すべてを献げる、美しいかもしれないけれど、人間には無理でしょう。ただ、そうしてくださった方が確かにいる。十字架に命を散らしたけれども、神はそのままにはしておかなかった、と私たちにそれを信じるかどうかを問いかけるチャンスが与えられている。それを思いつつ、ブレイディみかこさんの言葉を、もう一度反芻してみましょう。
 
自分と違う人間を理解するためのエンパシーとは、自分を手離さず、自分と他者の違いを守りながら、他者の靴を履く能力だ。



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