文化が違う (聖書篇)

2020年7月13日

聖書文化と口にしてみても、簡単ではありません。多くの場合、それはギリシア文化と混ざり合った、西洋文化の色に染まったものとして、私たちには伝わっています。最近、ユダヤ教のラビが語る聖書の理解に耳を傾ける、あるいはラビの聖書理解をキリスト教神学の場面でも学ぼう、というような動きが増えてきています。西洋文化ではない、ユダヤ文化の中から聖書を知ろうという、ひとつの健全な理解が必要視されているように思われます。
 
かといって、西洋文化の聖書の読み方が間違っている、というのも言い過ぎでしょう。いったい、聖書のどこが神の言葉なのか。聖書をどうして私たちは読むのか。どう読むのがよいのか。そこが適切に問われないままに、意見の相違や論争が目立っているような気がします。
 
聖書のオリジナルは何か、という動機が、研究を形成しているという分野、あるいは研究家がいます。とくに新約聖書は写本が無数にあるようなもので、その文献を取り扱うにあたり、オリジナルを探すような営みが多いように見受けられます。書き足しや書き直し、修正などを判定し、オリジナルこそ尊いというように、求めていくのです。けれども、近代にあっては、改訂版があれば、改訂版のほうが、吟味を加えられて修正された、より質のよいものができている、と見るのが普通です。聖書は何故古いものがよいとされるのでしょうか。改訂版というのは、同じ著者による改訂だからでしょうか。聖書の加筆などは、オリジナルの著者とは違う人物です。だから、変更したのはけしからんことであって、最初のが本当の聖書だ、というような考えが前提にあるのかもしれません。
 
ところが、聖書の隠れた著者は神である、という考え方もあります。人を用いて、という言い方が適切であるのかどうか分かりませんが、結局同じ神が様々な場面でいろいろな人物に霊感を与えて書かせた、とするのです。すると、改訂版を劣化したように見なすことが果たして適切かどうか、分からなくなります。
 
いやいや、霊感説など支持しない、という人も少なくありません。すると、人間がいろいろに書いたものが偶々集められて聖書となった、とすることになりますが、そこへ私たちの「信仰」がどのように関わるか、非常に怪しくなってきます。それは神からのものではないとしてしまうのか。そうだよ、人からのものだよ、と言ってしまう人もいます。いや、それでもそこに信ずべき何かがあるのだ、と見ていく人もいます。こうして、「聖書」と互いに呼び合うものが、全く違う態度で向き合うものになっていきます。まさに「文化」が異なる状況がここにも発生していることになります。
 
聖書をなんとか共有できるものにしよう、という試みが、偉い学者さんたちの大切な仕事です。ひとつの翻訳が苦労の末つくられ、また別の翻訳が生みだされもします。ムスリムの聖典とは異なり、翻訳されたものも私たちは聖典と見なします。その背景にある底本も無数の相違のあるものですが、なんとかひとつの見解のもとにしようと努めます。そして私たちは、一人ひとり違った形でその言葉と触れあいます。一人ひとり、別々の背景や経験をもつ人間として、聖書と向き合います。そして、それぞれが、それぞれの出会う言葉というものを運命づけられていたかのように、実に様々な言葉に魂が捕らえられて、聖書を信ずるようになります。言うなれば、神の呼びかけが聖書の随所から様々になされていたのですが、そのうちのどれかに、一人ひとり違う形で応じるようにして、神と出会うことになります。
 
確かに、よく聞くような、救いのきっかけとなった聖句というものはあります。でも、そうとは限らない点がまた不思議であって、なんでそんな聖書の言葉で神と出会うの、と思うような体験を、いろいろな人がもっているのではないかと思います。マタイの系図を見て、そうか、と目が開かれることがあったとしても全く構わないわけです。
 
となれば、聖書がどのように翻訳されても、もちろんそれが明らかに誤りであるというのは問題視されるのですが、それでも、その誤りの翻訳がもしも存在しなかったら、その人が神と出会うことがなかったのだとしてら、それもまた神の呼びかけであったし、神の救いの言葉であった、というように考えてはいけないでしょうか。その人が救われるために、あるべきであったその翻訳、あるいは底本、あるいは写本があったとすれば、それは素晴らしい存在感のあるものであったというふうに、救う側の神からは思えているに違いないと想像するのです。
 
むしろ、聖書はこの言葉でなければならない、とか、こう解釈しなければならない、とか、偏狭な思い込みを主張する動きには、私はどうにも賛意を示すことができないのです。問題は、誰かが神と出会う契機となりうるのかどうか、神と出会う場となったのか、その辺りにあるものとしか見ていないのです。「文化」が多様であっても、分割したり譲渡したりできないその個人が、神と向き合い、つながりうるのかどうか、そこに注目し、それを見守り、侑けられたら嬉しいと思うのです。
 
同じ「神」という言葉を見聞きしても、他宗教の人々は教会にいる人たちとは違うものを考えるでしょう。いえ、同じ教会にいる人どうしであっても、「神」という言葉に抱いているイメージや思いはそれぞれ違うのではないでしょうか。同じ言葉で「神」と言いつつ、同じ「イエス」と口にしつつも、一人ひとり同じものを考えているのではない、そんな前提でいてもよいのではないでしょうか。問題は、その意味を人間的な説明のできる範囲の意味で同定するところにあるのではなく、一人ひとりが神に出会い救われて、命を与えられることにあるとすることのほうが、目的に近いのではないでしょうか。



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