【メッセージ】ふさわしさへのアプローチ

2020年7月12日

(テサロニケ二1:1-12)

あなたがたを、今あなたがたがそのために苦しみさえ受けている神の王国にふさわしい者とする、神の正しいさばきの徴。(テサロニケ二1:5; 岩波訳)
 
新型コロナウイルスのもたらす影響は、スポーツ界を潰しかねない勢いとなっています。大相撲も、中止になったり無観客で開催したり、苦しんでいます。相撲は明らかに神社の行事であって宗教色が根底にあり、ただのスポーツとは訳が違いますが、だからこそまた、ただの勝ち負けではない意味がこめられているように見受けられます。横綱というのは、最高位の大関のさらに上にある地位です。教会で言う意味ではなく、神社でいう「カミ」の領域にある存在です。横綱と呼ばれる注連縄を締めることができるのであり、だから降格はありません。
 
横綱には、特別な「品格」が要求されます。それで時折、よい成績を修めたものの、この「品格」に相応しくないという点で、相撲界にトラブルが生じます。逃げ出した人もいましたし、言動がとやかく言われることもありました。特にいわゆる外国出身力士の場合、文化の違いもあって、日本古来の伝統が求める横綱像にそぐわないと非難されることが度々ありました。ただ相撲に強いというだけではない何かが求められているのは確かです。
 
ではその「品格」とは何か、というと、そんなに明確に定義されているようにも思われません。「心技体」と言われるのは、力士として重んじられる3つの要素のことで、横綱に限ったことではありません。恐らく「横綱の品格」というものは、いまだはっきりこれと決まって言われたことはないのではないでしょうか。まあ、この地位が「カミ」である以上、カミとして相応しくないと思われたときには、「品格」に問題がある、という理由づけがなされるのかもしれません。
 
「品格」という言葉がしばし流行したことがありました。ちょっと調べただけでも、火付け役となつた『国家の品格』(2006)以来、『女性の品格』『男の品格』『親の品格』『会社の品格』『腐女子の品格』などもあり、ついに『横綱の品格』まで出ましたが、これは1979年に出ていた『相撲求道録』のタイトルを、「品格」ブームに合わせて改訂したものだとか。テレビドラマでは最近またこの再放送現象の中で思い出された「ハケンの品格」もありました。しかし、『不倫の恋の品格』までくると、果たしてそれは「品格」なのか、と疑問に思わざるをえません。
 
いくら「品格」がブームになっても、日本での出版はビジネスになるはずもないのが、「牧師の品格」。そう、皆さんこれがいつ出てくるかと待ち焦がれていたかもしれませんね。それぞれの職業や地位に見合った「品格」がいろいろ考えられてきたわけですが、さて、牧師にはどんな品格が要求されているのでしょうか。いえ、冗談のように言っているつもりはありません。教会に来る人は、暗黙のうちに、牧師像というものを思い描き、期待しているところがあります。そして、それと反対の姿を見てしまうと、その教会は自分には合わない、と去っていってしまうのです。つまり何かしら、その人なりに期待している「品格」のようなものが、きっとあるのです。人目を第一にするべきでない、というのは本当かもしれませんが、あまりに無頓着でいてよいというものでもないような気がするのですが、如何でしょうか。
 
新しい手紙に入りました。とはいえ、これまで読んできたのと同じ「テサロニケの教会」への手紙だとされています。その第一のものは、パウロその人の手によるものであろうことを疑う学者はいませんが、この第二の手紙は、どうやらパウロ本人が書いたものとは思えない、とみる人が多いと言われています。第一の手紙を目の前において、それをお手本として書いている風景が浮かんできそうなものとして読めるのだそうです。本日開いた1章も、まだ第一の手紙を踏襲した段階の内容ですので、この2つの手紙の関係については、今回は触れることなく、このまま読んでいこうかと思います。
 
最初の挨拶で「神と主イエス・キリスト」という組合せが二度登場します。新共同訳がカトリックの特殊な訳をしばしば採用しているその代表的なもの「〜に結ばれて」が実は「〜において」であるという事情が、いきなりここに出てきます。「キリストに結ばれて」とあったら「キリストにあって」と自動的に読み替えるくらいの心得はもっておくとよいでしょう。
 
テサロニケの教会とパウロの関係はよかったとされていますので、テサロニケの人々の信仰が成長していること、豊かな愛がそこにあることを、手紙の書き手は喜んでいる様子を示します。迫害や苦難があっても、忍耐と信仰があって教会が福音から外れないでちゃんと生活がなされていることにも触れられます。
 
1:5 これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠です。あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです。
 
テサロニケの教会の人々が立派だというニュースが届いているのですが、それは、神の判定が正しい証拠だ、と言っています。「判定」でもよいのですが、「ジャッジ」とでも言ってみましょうか。しかし原文では「神の正しいジャッジのしるし」のように書かれていて、ちょっと新共同訳とは印象が異なります。なんだか、神を下に見ている偉そうな感じがしませんか。私たちはテサロニケの人たちが立派だと思っているが、それは神も正しいジャッジをしていることの現れなのだ、と響いてしまうからです。多分に言いたいことは「こうして自分たちがテサロニケの人々のことを褒めているわけだが、きっと神も同じように褒めてくださるに違いない」というようなことなのだろうと思います。どんなふうに褒めるのかというと、「あなたがたを神の国にふさわしい者とする」ことです。新共同訳だとまた、その次の「あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです」が取って付けたように見えて仕方がないのですが、いわゆる関係代名詞として「神の国」とつながっていますから、訳としてはもったいぶっていますが、「あなたがたもこの神の国のために苦しみを受けているが、その神の国にあなたがたが相応しい者であるとする、神の正しいジャッジのしるしだよ」というようなつながりで読むと、関係が少し見えてくるのではないかと思います。
 
皆さんは、神の国のために苦しみを受けています。でも、その神の国には皆さんは相応しい者です。そのことは、神が正しく判断してくださっているし、私たちもそう思います。――このようにいまは読み進んでおきましょう。「神の国」というのは、「神の王国」つまり「神を王とする国」のことですが、私たちがイメージする国家のような存在というよりは、神の支配のもとにある、神にすっかり守られている、という内容を意味する言葉です。皆さんは神のものです、悪魔に渡されたりはしないよ、ちゃんと神に救われ、神に大切にされるんだよ。それに価するんだよ。自分なんか神に救われないんじゃないか、こんなにダメなんだもの、立派なこともできやしない、貧しいし能力もないし、悪いこともしてしまう、だから神がいつか最終的な審判をするような時には、それに見合う者であることは難しいんじゃないかな。そのような自信のなさを破り捨てるような、慰めと励ましの声をかけたということになるでしょう。教会もまた、いつもこのような言葉を告げていくものでありたいと願います。
 
ところが、この後、悪い側の情景をも描きます。燃え盛る火の中を通ってやがて再びやってくる主イエスは、福音に聴き従わない者を罰するのだ、とするのです。そうした者が行き着くのは「永遠の破滅」です。ちょっと怖い脅しですね。
 
けれども、テサロニケの皆さんは、そんなことを心配する必要はありません。私たちの手紙を読んでその福音を素直に受け容れて信じた皆さんは、救われるのですよ。手紙はそのように呼びかけた後、このように綴っています。
 
1:11 このことのためにも、いつもあなたがたのために祈っています。どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。
 
主が来られたときに皆さんが救われることを祈っています。嘘はないでしょう。ひとのために祈るというのは大切なことです。その祈りが続いて文面にも刻まれています。
 
皆さんを「招きにふさわしいものとしてくださ」いますように。ここにしばらく留まりましょう。「招き」は呼びかけて集めること、召すことです。西欧語では、このように呼ぶことを後々「職業」という語へとつなげました。「天職」という言葉もありますが、神からその仕事をするようにと呼ばれる意識を、特にプロテスタントでは強くもったであろうと思われます。「ふさわしい」は「価値があると思う」ことですが、ここで少しだけ細かく見ます。
 
先ほど「あなたがたを神の国にふさわしい者とする」(1:5)という箇所がありました。ここにも日本語では「ふさわしい」とあり、「あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり」(1:11)にも「ふさわしい」という同じ日本語になっていましたが、よく見ると神の国のほうは「ふさわしい者」、招きのほうは「ふさわしいもの」と異なっています。どちらも意味の上ではさして違わないような気がするのですが、奇妙な感じを与えます。
 
実はギリシア語では、神の国のほうは「価値があると認める」「ふさわしいものとみなす」という、強い意味をもつ動詞です。これは、招きのほうに使われている動詞に、「下へ」という基本的な概念をもつ前置詞が付いた動詞なのでした。それで、招きのほうはそれの付かない、「価値があると思う」という素朴な動詞です。「招きに見合う価値があると思える」存在となれますように、という祈りは少し軽い響きであり、「神の国にふさわしいと決める証拠」のほうは、より強い響きを感じるような気が、素人にもするのです。このやや軽いほうを「もの」と平仮名で表記し、神の国の資格を与える証拠めいたことを言うときには「者」と、なにか人格的な存在感をもたせるかのように漢字を使って表記した、というふうに私は考えてみました。当たっているとはとても思えませんが、私なりにこの表記の違いを、原語の違いから想像してみたという具合です。招きに応える次元と、本当に神の国に賊する段階の話をする次元とでの重みの違いを、こじつけ気味でしょうが、考えてみました。
 
テサロニケの人たちへの祈りはさらに、善を求め信仰を強くしてもらえるようにと展開し、再び最初と同じように「神と主イエス・キリストの恵み」により神が称えられますことを願うように記されています。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和」(1:2)は「から」という語が加わっていました。しかしここは「の」を消してしまうと違ったふうに聞こえてきます。「恵みと平和が、わたしたちの父である神と主イエス・キリストから、あなたがたにあるように」とあれば、とても素直に読めるような気がします。この最後のところでは「わたしたちの神と主イエス・キリストの恵み」と、前置詞はなく属格でつながっています。こちらは「わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって」となり、先ほど「下へ」と説明した前置詞が使われています。「恵みに従って」「恵みに応じて」のような雰囲気で受け取りましょうか。それによって、主イエスの名を皆さんが崇め、皆さんも主からよき報いを与えられるようになるのだと励ましています。
 
巡回伝道者であり、その教会の創始者であるパウロは、その教会員のために祈っていました。神の招き、神の召しにふさわしいと思われることのために。私たちもそのように、誰かに祈られているでしょうか。そして私たちは、このような神の招きを確かに受けているでしょうか。決して重々しくなくてもよいのです。私たちは自分がどうして教会に来たのか、どうして聖書を信じるようになったのか、自分の出来事として、そんなにきっちり説明できるものではないのではありませんか。今にして思えば、どうして教会に来たんだろう。あのときどうして、行ってもいいと思ったんだろう。どこがよかったんだろう。今となっては分からないことが多いものです。でも、やっぱりそういうところは、心に刻んでいてほしいものだと思います。教会に来たというのは、自分の意志です、などときっぱり言われる方がいらっしゃいますが、本当にそうかどうか、もっと考えてみてよいと思うのです。自分の意志を導いてくれるものはなかったか。そんなに自分は自分の選択でこの道を考えて選んだものなのか。神は必要な魂に導きをきっと与えます。教会に来るように祈っているあの人がなかなか来てくれない。導きが与えられないからその人のことを神は必要ではないのかしら、と残念がる必要はありません。それには「時」があることでしょうから。むしろ、自分自身に向けられた招きに、しっかりと気づき、思い返すことで意識してもらいたいものだと思います。それが証詞となります。神を証言することへとつながります。
 
そして、正しい神の判断として挙げられたのは、「あなたがたを神の国にふさわしい者とする」しるしでした。忍耐と信仰が申し分なく、すばらしいことだからです。あなたは神の国に相応しい人物だ、とのお墨付きがもらえるようなうれしさを覚えます。とてもとてもそんな人間ではなく、失敗もすれば、神の僕に似つかわしくない言動をとるようなこの自分に、おまえは神の国の住人と認める、というお達しが来るのです。
 
言うなれば、神の国の住人の「品格」があることが認定されることになります。することはそんなに出来のいいものではないが、相応しい存在だと認められた、ということです。相撲とは違って、この「品格」には一定の説明が施されます。この手紙の冒頭でも、「迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示している」(1:4)とありました。「あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっている」(1:3)ことも関係しているでしょう。
 
そして、この徳には、どうやら香りが付いているような気がします。
 
神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。(コリント二2:14)
 
この香りと同じかどうか分かりませんが、黙示録では香りの本体を明らかにしています。
 
巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、竪琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖なる者たちの祈りである。(黙示録5:8)
 
品格だか風格だか、全く私には縁のないようなものですが、それでもなお、神は真実なお方であると信じ、期待したいと思います。「神はこの報いを実現なさいます」(1:7)という、神への信頼が求められています。辛くても凹んでも、望みを見失っても泣いていても、イエス・キリストをいつも見つめることを忘れないならば、香りに満ちた「品格」がそこには付随しているはずでありましょう。



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