「いま」と「逆説」
2020年7月12日
礼拝メッセージを受けました。心のこもった、そして心に残るメッセージでした。直接そのメッセージをご存じない方が殆どでしょう。メッセージそのものについて偏見を懐かせる内容になっているかもしれません。そこで以下の呟きは、語られたメッセージそのものを扱うものではない、とご理解ください。提示されたテーマを用い、ここでは自由に連想し、考えていたものである、と捉えてください。
「いま」は、ただ流れる時間の中での、任意の時点を指しているのか。それとも、他の瞬間とは区別されたものとしての、何かしら特別な意味のある、特異な時であるのか。日本語でも、「時間」と「時」とは、何かしら異なる感覚で捉えるという場合があるでしょう。新約聖書のギリシア語でよく比較されるのが、「クロノス」と「カイロス」。特にこの「カイロス」が、ユニークな特別な意味をもつ時として、イエス・キリストの十字架や復活という歴史上の特異点を指していることがあるのを、私たちは知る必要があるでしょう。
しかし「いま」が、いつもそのようなカイロスのような価値や輝きをもっているようには、普通私たちは思わないものです。私たちはなんだかんだと理由をつけて、本当は特別な「いま」であるはずなのに、またそのうちにするよ、というように自分の解釈でクロノスと規定しているのではないか、と省みてみましょう。もしそうだとすれば、私たちは、なんとぼんくらに「いま」を見過ごし、チャンスを逃していることになるのでしょう。いえ、私たちではなく、私です。
「いま」を生かせなかったことは、気づくとすれば、後から「あの時」だと気づくだけです。渦中で見抜く能力が、決定的に欠落しています。それは私だけかと思ってもみましたが、恐らく人間たるもの、皆そうではないでしょうか。悲しいかな、クロノスを超えて見渡すことのできない、三次元の人間としては、その時その都度の意味を、その時に知ることが原理的にできない。ただ、預言者が、人間の外からの声を預かるタイプの活動ができた際には、「いま」この時の意味を、警告なり予言なり、発言することができた、と聖書は記録しています。
思うに、この「いま」たるものを、まさにその「いま」の時に知っていたのは、ただイエス・キリストおひとりではなかったでしょうか。父なる神はそのような「いま」の中に置かれていないという意味で、ここでは該当しないことにしておきます。
ぼんくらな人間が認識できる「いま」やそのに伴う風景を描写する方法がひとつある。後になってようやく気づくだけで、その時には「いま」の大切さを知ることができない、凡庸な人間のあり方のことです。しかし、人間はそれで終わるだけの可能性のほかの道を与えられたのだと考えます。イエスを通して与えられる恵みから、あるいは霊からもたらされる描写というものが、きっとある。これら2つの描写は、人間の論理ではどうにも相容れるようには見えません。矛盾のほかの何ものでもありません。
3方向からの影が、円・正三角形・正方形であるような空間図形というものがあるでしょうか。普通の人間の発想では、なかなか思いつきません。人間が、「いま」というものの意味を、振り返ることによってでしか知ることができないというのは、たとえばその思いつかない状態を意味します。どう考えても矛盾します。ところが、あるひらめきによって、その解答が与えられたとします。近年このような解答に気づくことを、「神が降りてきた」というような捉え方をしますが、まさにイエス・キリストを通して霊が与えられることによって、普通の考え方では思いつかなかったようなものが見えるようになるでしょう。「いま」その時に、その「いま」の意味を知ることが、そのようにして可能になることがありうるし、それは自力で獲得できるものではないという仕方で、与えられるものだとしてみましょう。イエスと出会い、十字架が復活へと結びつくことを体験したときにそれは与えられます。もはや矛盾ではなくなるわけです。
そんなことはありえない、相反するし、矛盾でしかない。人間的視点からは、どうしてもそのようにしか見えないことがあります。けれども、イエス・キリストを体験することで、それが矛盾ではなくなっていくように見える、それは信仰者ならば何かしらピンとくることではないでしょうか。以前の自分だったら、こんな目に遭ったら堪えられなかった。絶望していた。あるいは相手を恨んでいただろう。でも、イエス・キリストを信じてからはそうではなくなった。こうした体験の積み重ねが、信仰生活の中に確かに刻まれていると思うのです。小さなことであって構いません。考えてみてください。
中村哲さんは、大きな仕事をしました。私のような凡人からすれば限りなく雲の上のような存在にすら見える生き方でした。けれども、構造としては、人間的な見方だと矛盾であったり行き詰まったりするようなことが、上からのものによって可能になっていったことの成果であると見なすと、失礼なことになるでしょうか。だから「いま」という時をその「いま」に知って、それを実行していったような生き方をすることができていたのだ、というように捉えては、的を外したことになるでしょうか。
それは矛盾だ。そのような言明をするしかできない立場というものがあるでしょう。「逆説」というものには多種多様なものがあるのですが、たとえばひとつには、本当のように見えて実は虚偽である、というタイプのものがあります。「アキレスと亀」が有名です。足の速いアキレスの、前方に亀がいて、同時に出発します。アキレスが、最初に亀のいた位置までくるのにかかった時間、亀はゆっくりながら少し前進しています。亀はまだ前にいます。その時の亀の位置に、アキレスが着いたときにも、亀はまたいくらか前に進んでいます。このように、アキレスが、もと亀のいた地点へ着いたとき、亀は必ずいくらか前方に進んでいますから、アキレスは亀に永久に追いつけない、というのです。これはありえないことはすぐに分かります。しかしこの論理を崩すのは簡単ではありません。矛盾だ、と私たちは気づいていますが、論理は食い違っています。これはこれで一つの「逆説」なのです。
確かに論理的に矛盾するような「逆説」もあります。「机の上に本がある」と「机の上に本はない」は、両立しないようにしか思えないでしょう。「箱の中の猫は生きている」と「箱の中の猫は死んでいる」も両立しないとしか思えないでしょう。しかし、後者は、理論物理の方面では有名な命題で、これは必ずしも私たちが思うような矛盾とは言えないという理解になっています。
このように、「逆説」も様々な様相があるのですが、しかし、メッセージにあった「逆説」は、恐らくこのようなものではありません。通常はAとBという形では両立しえないような考えがあるとします。反対概念と私たちが見なしているものです。ここに、論理によらない曖昧さがあります。通常の理解だときっとそうだと思えるようなことも、必ずしもそのような考えるのがすべてではない、という場合があるからです。
7月12日朝、「こころの時代」というEテレのテレビ番組で、「今 互いに抱き合うこと−−コロナ禍に読む聖書−−」という題の下に北九州の東八幡キリスト教会の奥田知志牧師が語っていました。その中で、障害者施設で大量殺人を犯した男について(牧師は彼と直接話をするなどもしています)、ある人の一種の反論を紹介していました。お嬢さんを介護し続けた母親が、あの男の言うことは違う、と言うのです。「障害者はまわりを不幸にする」ということから殺した彼の論理は違う、と。「私は娘を介護して、不幸だとは思ったことがない」と。ただ「たいへんだ、とは思った」ことを付け加えます。男からすれば、障害者は人にたいへんさを味わわせる、だから不幸にさせるのだ、という論理だったのでしょうが、この母親にとっては、障害者は人にたいへん差を味わわせる、しかし不幸にはさせない、というつながりが成り立っていたのです。
同じ前提や情況があったとしても、それをどう捉えるかについては、一義的に決まるとは限らない。だとすれば、多くの人にとっては、AであればBではない、と思うか、あるいはAではなくてBである、と思うかしかできないような場合でも、別の人にとっては、AでもありBでもある、と見なせる可能性がある。それは、実は至って自然なことではなかろうか、と私は思うのです。素朴な言い方をすれば、信仰をもたない人には辛いものでしかないことが、信仰をもつ人にとっては、辛いのは事実であるが、喜びでもある、ということは信仰の世界でのある意味で常識となりうるものではないか、と考えるのです。
「いま」という時を常にすべてその「いま」の中で気づいていたイエスのようには私たちは振る舞えません。福音書がイエスの十字架の予告をどのように描き、またそれを読者が、また神学者が、どのように理解したとしても、イエスがその「いま」についてぼんくらであったとまではする必要はないだろうと思います。そしてその件についていま論じようとするのではなく、私たちが「いま」の意味に十分気づかず、また見過ごしてばかりいるというのが事実であるにしても、それを縛られた一義的なものとしてだけではなく、上から与えられる別の視点を受けるような、イエスとの体験をもち関係を備えられた者にとっては、他の見方、つまり「逆説」であることに気づいて対処することが可能になっているのではないでしょうか。そしてむしろ、そのように気づけ、と迫られているのではないでしょうか。いえ、さらに言えば、その転換がおまえにはできるのだよ、と導かれているのではないでしょうか。導かれつつ、私たちは、不信心な中で声をかけられておりながらも、気づかされ、信頼関係を結ばれていくのではないでしょうか。
信仰のフィールドでなければ、「見かけは悲しんでいるようで実は喜んでいる」は、できっこないことに見えます。つまり「逆説」であり、そんなことは無理だ、と近寄りがたい世界にも感じられることでしょう。しかし信仰のフィールドであれば、「見かけも真実悲しんでおり、事実喜んでもいる」ということが、当然そうなりますよね、と受け取ることができる、それが私の捉え方です。このとき、すでにもうそれは「逆説」ではなくなっている、と言うしかないと思うのです。信仰者は、決して「逆説」を生きているのではない、それが当然であるような実践的論理を生きているだけのことなのだ、もはや「逆説」ではないところに(恵みにより)立っているのだ、と。