文化が違う (教科篇)
2020年7月11日
英語に苦手意識をもっている中学生の質問。「forの意味を教えて」ときました。そんなの、一言で言えるものではないし、様々なものを一つひとつ伝えるような場面でもありません(そもそも私なんぞに説明し尽くせる話題ではない)。なんといっても中学二年生の一学期なのです。まずは触れた表現を口に出して覚えてしまうこと、そこから始めるようにアドバイスしましたが、やはり気になるらしく「forって……」と引き下がりません。その子が、数学が面白いと言っていることを知っていましたので、私も彼の気持ちには思い当たるふしがありました。それで、英語は数学の公式のようにこれはこう、と日本語と一対一対応になっているのでもないし、ひとつ覚えたらいつでもその通りにすればよいという万能の定義や理解などないということを説明するしかありませんでした。「君は助詞の「で」の意味は何ですかと尋ねられて説明できますか」と逆質問します。格助詞の場合だけに限っても、手段とか場所とか原因とか、さまざまな意味を国語辞典は提供するでしょうが、それをいちいち意識して使っているわけではありません。私も彼と同じように、数学のように英語が理解できると思い込んでいたので、英語についてはずっと誤解したまま、苦手意識がつきまといました。高校では実のところおちこぼれていたようなものでした。
数学と英語とは、成り立ちも学び方も構造も、何もかも違うのです。それは少し喩えのように言うと、「文化」が違う、と表現しても、私の思っていることは伝わるのではないかと思っています。少し回りくどい説明をしますが、「私には兄がいます」を英語にするとき、「いる」っていう英語を考えるのではなくて、言うなれば日本語の英語文化形である、「私は兄をもっている」に変形して、それにふさわしい「have」を持ち出す、という経過を心の中で辿りながら、英語の文化を自分の身に着けていくという訓練をしていくのではないでしょうか。
その英語の文化にしても、中世の英語は現代のものとは甚だ違います。雑多と言えるほど各地から流入した文化が混合して、英語が形成されていくとき、文字もそうですが綴りが多様すぎて、もう一般的な規則など考えることが不可能になったほどに、多種多様な綴りができてしまい、発音がかつての綴りのままになされるなどして、パッと見で発音ができなくなった、難しい言語になってしまいました。それが現在世界標準になっていこうとしているなど、本当に大変な学習を人類に強いることになってしまいました。
英文学について面白い本があったので読み始めていますが、18世紀までの文学がどれほど今私たちが思う「文学」とはかけ離れていたものであるか、思い知ります。同じ「文学」という言葉で呼ぶことも憚られるような有様です。そういうのは実に多く、私たちは古代の「戦争」は、などと言いますが、とてもとても「戦争」という言葉で思い浮かべるものが違うことこの上なく、昔の文献で「戦争は必要だ」などという論述を根拠に何か味方を得たようなふりをする人がいたりしますが、とんでもないことです。同じ語は、いまここで対峙している相手と議論している時ですら、その定義・概念・包摂内容が異なるものです。それをいまここでは「文化」の相違だという呼び方で理解しようとしているところです。私たちは言葉ひとつとっても、単語ひとつにしても、「文化」の相違を前提とした中で、コミュニケーションをとっているに過ぎないのです。