回線によるつながりにどう意味を読み込むか

2020年7月7日

非常事態宣言のとき、織姫と彦星の気持ちが分かる、などという声が聞かれました。逢いたいのに逢えないもどかしさ。新型コロナウイルスの感染を抑えるために離れているというコンセプトは、非常事態宣言が解除された後にもまだ有効だと考えられています。
 
私は経験していませんが、昔の「君の名は」のようなすれちがいのドラマは、見る者をはらはらさせ、物語に引きこむ力をもっていると言えましょう。いまなら携帯電話・スマホにより連絡が簡単に取れるわけで、そうした「すれちがい」は起こりにくくなっているし、見るほうもドキドキすることにリアリティを感じなくなっていることでしょう。「めぞん一刻」のようなマンガの名作(?)も、アパートの管理人室に一台しかない電話などという状況ががなければ物語が成立しないわけで、気持ちが届かない、結びつかない、といった「綾」の描くものが味わえなくなってしまいました。
 
他方、だからこそこの新型コロナウイルスの巣ごもりや距離の置き方の生活の中で、そのネット回線、つまりオンラインを利用することによる「リモート」としてのつながりが、いっそう注目され利用されることになったという有様にも驚くばかりでした。いえ、いまもなおそれは続いています。
 
それは一種のバーチャルでもあります。が、視覚と聴覚については、確かに相手を認識できます。人間の感覚のうち、この2つに絞った形での交流というものが、何をもたらすか、が気になります。確かに、この2つは、感覚による情報の非常に多くの部分を占めると言えるでしょう。でも、全部ではありません。それに、そのどちらかの感覚において社会的に遮断されている、あるいは不自由を強いられている方々においては、そもそもふだんから情報が制限されているということにも、皆が気づかねばならないという状況にもなっているかと思います。
 
このラインがなかったら、人はほんとうに孤独になっていたかもしれません。かろうじて、テレビやラジオがすでに前世紀からありましたから、一方的な情報は入ってきます。電話もありましたから、特定の知人とコミュニケーションはできたことでしょう。けれども、インターネット回線によるつながりは、量的にも質的にも、格段の差があります。
 
だから、気持ちを伝えるインターネットのつながりがあることで、人と人とがつながる道が確保できて、それでよかったのか。ないよりは良いことは間違いないでしょうが、これでなんとかなるのかどうか。視覚と聴覚に特化したコミュニケーションがあればなんとかなるのかどうか。ある高校の授業で意見を整理して述べるのに用いられた話題を、少し変形して、提供してみました。
 
会えない時間が愛育てるのさ……雲の上の織姫と彦星に思いを馳せながら、人と人とのつながりを掘り下げて考えてみるのもよいかもしれません。ただ、もし聖書をお読みの方でありましたら、イエス・キリストと自分とのつながり、そこには何らかのバーチャルさが伴うものであり、また時間空間を超えた出会いが必要となることを踏まえて、そのリモートさが、遠いものではなくなるというあたりまで、聖書の言葉を読み込んでいくと、ぐんと有意義な魅力に溢れる考察、または信仰となるのではないかと期待しています。



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