【メッセージ】Xデーの待ちかた
2020年6月28日
(テサロニケ一4:13-5:11)
しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。(テサロニケ一5:4)
テサロニケの手紙から神の言葉を聞こうとするのも、今回と残り一回となりました。ここまで、パウロ自身が生みだした若い教会が、パウロの不安を拭い去り、良い教会に育っていることを喜ぶ様子が幾度も見受けられました。いわば、パウロとテサロニケ教会の人々との、蜜月的な関係が随所に現れた、あたたかな雰囲気で読んでくることができました。
ところがこのテサロニケの信徒への第一の手紙とくると、新約聖書において、特別な意味合いがこめられていると理解されているのであって、ここまでそれを取り上げてはきませんでした。いよいよ今回、この手紙の真骨頂である部分を扱うことになります。これまでとは全く違う様相を帯びてくるかもしれませんので、どうか座り直して神の言葉に向き合ってください。
ひところ、「Xデー」という言葉がよく聞かれたことがありました。たとえば、昭和の末期、今でいう昭和天皇が亡くなるのはいつなのか、ということは誰もが気にする情報でした。しかし敢えて口にして、「いつ亡くなるか」といったことは、儀礼上言うべきものではなかったとして、そのときを「Xデー」という呼び名にする共通理解をもって、政治的なことでもなんでも話を持ち出すようにしたのです。
1995年のオウム真理教の事件のときには、隠れていた首謀者たる麻原彰晃の逮捕はいつかということを呼び指すときに「Xデー」という言葉をよく用いていました。この事件では、メンバーの死刑執行の日のことも、そのように呼ばれていたように思います。
その他、いつ衆議院が解散されるかということにも「Xデー」などと称して新聞の見出しが書かれることもありました。社会的なことでなくても、「夫に離婚を切り出すXデーはいつにするか」といった使われ方もあり、離婚するその日のことを「Xデー」と呼ぶようなこともあるようです。
これはどうやら日本での独特の使われ方であるらしく、海外では軍事作戦の実行日を指すための語であったそうです。それが日本で普通理解されているのは、特定のある日のことで、それは「確実に起こること」そして「それがいつであるかはいまは分からないこと」が条件であるように見受けられます。特に、よくないことや何者かの破滅を想定した使われ方がなされるのが普通です。
いま日本のキリスト教界でも、だいぶ前から「Xデー」という語が飛び交っています。日本の教会で多くの貢献をなさった方が存命中にまだいろいろ云々という話をするとき、その方が召される時のことを「Xデー」と呼んでいるのです。どこか失礼な言い方のようですが、そのご本人がさかんに用いて発言されているので、ここでも触れておくことにしました。
さて、この「Xデー」というのが、聖書の中でもあるというのが今日聞く内容の中心です。聖書の中にあるというどころか、これはもう聖書やその教えの核心部にあるもの、私たちが一心不乱に見つめ続けていなければならないことでもあります。それは旧約聖書の中でも実に多く言われており、イザヤ書以降の預言書で「主の日」という言葉が見られるのがそれです。「主の日」は新約聖書の書簡の中にも何度か出てきます。いま私たちがそれを聞くと「主日」つまり日曜日のことであるかのように錯覚しそうですが、これらの「主の日」というのは、主が来て審きをなす時のことを指しています。
ユダヤ教は、この「主の日」をひたすら待っている信仰であると考えられます。このことを、ユダヤ教は未来に基準を置く宗教であると考える場合があります。新約聖書でも、イスラエルをいつ復興してくれるのか、とイエスに問うような場面もありましたが、ユダヤ教はいつかメシアが来てイスラエルを回復し、神の国を立てるのだという信仰をいまも抱いています。キリスト教は、そのメシアがイエスであったと信じるのですが、ユダヤ教にとりイエスはメシアではなく、いまなお将来的に現れる誰かということで、待ち続けていることになります。
「主の日」はたんに「その日」と呼ばれることもあります。もちろん、「その日」という言葉が皆それを意味するわけではありません。たんに話題の日を指す場合も多々あるのですが、これもやはり、預言書に入ると、俄然この意味で使われるようになります。厳密に検討していませんが、イザヤ書だけで46節に見られ、エレミヤ書にもその半数ほどの節があり、エゼキエル書にもそれと同じくらい使われています。ゼカリヤ書もそれと同じほどあるのですが、大小の預言書全体で145節にわたり、「その日」という訳語が含まれていました。なかなかの数です。いつかその日、神が審きをなす時が来るという予告がずいぶんとあることが分かります。新約聖書ではこれが激減しますから、「その日」という構え方は、旧約聖書特有のものだと言ってもよいのではないでしょうか。
こういうわけで、神がひとつの決着をつける将来のある時、いうなれば「この世の終わり」と言える日、それが「主の日」であり「その日」と呼ばれていました。まさに「Xデー」のことです。パウロにとって、この「主」はイエスにほかなりません。しかも、それがいつであるかは分からないという状態でしたから、今日明日にでもその時がくるかもしれない、という切迫感に襲われていました。その思いが伝道の足を速め、自らに鞭打つようにして伝道に励んでいた背景にあります。そしてテサロニケの教会の人々へも、その「Xデー」への備えをするように、しきりに勧めるということが起こっていたことになります。
話のきっかけは、すでに死んだ人たちのことでした。天に昇ったイエスは、いつかまた来ると言い残したと信じられています。そしていわば最後の審判をする、というようなことを信じて、信ずる者はこの世で頑張っていることになります。でも、イエスが天に昇ってから20年近く経つような時代です。その間、仲間の幾多の人が死んでしまいました。いったい彼らは救われるのだろうか。不安が過ぎります。テサロニケ教会の様子を見てきたテモテからそのように聞いたのだと思います。そこでパウロは、その人たちのことを思いやる返答をします。
4:15 主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。
4:16 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、
4:17 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。
少しばかりドラマチックに、あるいは今ならば映画のワンシーンのようにも見える「その日」の様子ですが、パウロはパウロなりに、このことを確信していたのでしょう。また、各地でイエス・キリストについて語るときに、このように話していたに違いありません。何もこのときに思いつきでちょろっと述べたのではないと思われます。パウロは伝道旅行の各地で、この世の終わりについて、このように話していたのではないでしょうか。もちろん、テサロニケの人がもちろん悩んでいたということは、実はこれまで話していなかった、という可能性も残しています。
ともかくこうしてテサロニケの人々の不安を払拭した後、パウロは大切な注意を告げます。「その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません」(5:1)というのは、「あなたがたはそのことについて書かれる必要をもつものではない」というようなニュアンスです。それがいつになるのか、は必要のない情報なのだ、というわけです。まさに「Xデー」のままでいろ、ということです。
5:2 盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。
5:3 人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。
セキュリティの面で考えると、当時泥棒はよほど怖い存在だったと思われます。ルパン三世や怪盗キッドではありませんから、いつくると予告するわけでもなかったでしょう。思わぬときに襲ってくるのが盗人です。神の決めた特別な日というのも、私たちが知ることはできないのです。この事態への心がけについては、ルカによる福音書に印象的な譬えがありました。
12:16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
12:17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
12:18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
12:19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
12:20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
これはその人の人生生涯の問題ですから、世の終わりということとはまた違うのですが、人が先行きを決めて計画したものがすべてではないことへの戒めとなっています。「楽しい毎日だ、明日も楽しもうぜ。なんて平和なんだ」と油断しているときに、「突然、破滅が襲う」(5:3)とパウロは忠告しました。新型コロナウイルスの猛威はいまなお世界の人々を苦しめていますが、日本では非常事態宣言も解除され、東京アラートも解けました。そしてこのお上的な宣言ひとつで、すっかり「もう大丈夫」と思ったかのように、密への配慮を欠いたようなことで、一部でまた感染が拡がっていることが懸念されています。自分で決められないことについて、都合のよいように判断してしまうこと、つまりは「油断」というものについては、聖書からも、私たちは強く戒められていることになると言えるでしょう。
5:4 しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。
5:5 あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。
おかしなことです。時や時期については情報が与えられないと言いながら、信じる者たちには突然破滅が襲うことがない、というのです。それは何故か。闇に属していないからだ。光の中にいるからだ。つまり「目を覚まし」(5:5)ているからです。こう言ってパウロは以下、光の中を歩む私たちが信仰と愛を身に着け、救いが与えられることを確約します。私たちはいつも主と共に生きるようになれるのであって、身を慎み、互いの向上を考えて生きようと促しています。
ここから受け取ることができる理解はただ一つ。「その日」つまり「Xデー」がいつかは分からないが、「その日」はイエス・キリストを信じる者にとっては破滅ではなく、救いなのだ。これなのです。
それでは私たちは具体的に、どうしていればよいでしょうか。イエス・キリストを信じていること。もちろんそうです。目を覚ましていること。これは抽象的ですが、身を慎み、正しい生活を続けることを勧めているというわけなのでしょう。なるほど、そうしましょう。よかった、よく分かりました――そう言えるでしょうか。私たちはその「Xデー」をどう胸に置いておけばよいのでしょうか。
私たちの側の心理としては、私たちはひたすら「その日」を待つことになります。私たちにできることは、一言で言うと、地上で生活しながら、主が再び来られるのを待っていることのはずでした。しかし、驚くべきことに、新約聖書で、そのような意味で「待つ」というような言葉で訳されている箇所は、非常に少ないのです。まず一つ。
しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。(フィリピ3:20)
ここでパウロは、そんなに「その日」を意識しているわけではありませんでした。キリストを信じてこの世で正しく生きよう、というような程度です。そこでもう一つ、ヤコブ書から。
兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。(ヤコブ5:7)
この程度です。いったい、キリスト者は「その日」を待つ意識が薄いのでしょうか。いえ、日本語で実は「待ち望む」というような表現が、多々あるのです。それに対応する原語は複数あるようですが、いずれも一語の動詞を「待ち望む」と訳しており、そこに希望を抱いて待っている様子が想像されるものとなっているようです。
そう。ただ「待つ」のではありません。「希望の中で待つ」のです。そしてこれこそ、パウロがテサロニケの人々に投げかけていたメッセージであったはずです。あなたがたは心配する必要はない。不安がらなくてよい。それはいつだか知れない。しかし「Xデー」は必ず来る。必ず主は信ずる者を救い神の国を実現する。その時がいつかきっと来る。それを信じて生きていこう、それが希望なのだ。いつ来るか知れない日を待とう。パウロは、心許せる教会の人々に、そのように言い続けていたに違いないのです。
最後に、少しだけ想像してみてください。「ここで待っていなさい」お店で親が小さな子に、そのように言い聞かせることがあります。まぁ危険性はないとして、ただ用事で親がその場を去るが子どもを連れて行けないとき、「ここで待っていなさい」と命じることがあります。さあ、皆さんはその子の立場になってみましょう。子どもの心理は如何様でありましょう。心細いけれども、ひとつの使命感を帯びて、その言いつけを守るのではないでしょうか。しばらく時間が経って、親が戻らないことがあります。不安に駆られることでしょう。でも、子どもはきっと待ちます。自分で考えて判断して動き回ることを、しないものです。自分の判断よりは、親が戻ってきてくれることを信頼しているからです。自分を捨てて行ったのかな、などと疑うことはないでしょう。必ず来てくれると待つことでしょう。時に、親が現れた時のことを想像しながら、希望をもって待っているのではないでしょうか。
ですから私たちも、Xデーを待つとき、子どものようでいましょう。
はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。(マルコ10:15, ルカ18:17)