神の無尽蔵
2020年6月19日
経済の原理や仕組みについては何も知らないに等しい者として、素朴に不思議に思うことがあります。給付金がこれほど出されるのは、いったいどこからなのでしょう。国債云々という声を聞いたところで、普通に考えてこれほどの額が打ち出の小槌のようにぽんぽんと出されるのが不思議でなりません。しかも税収が落ちていくことが予想される中で、ほかにすべきことも多々ある中で、素朴に分かりません。
一律の給付金は、それなしでも全然大丈夫という人もいれば、そのくらいでは焼け石に水という人もいるわけで、果たしてどう機能しているのか、そしてそれでよかったのかどうか、やはりよく分かりません。
困っている人へ向けられるべき給付金が期待させた期間の何倍もかかってなお届かない中で、名前だけのような会社が何十億も濡れ手に粟にしか見えない有様、かつて総理大臣が犯罪ですと言い切ったことをした人は罪に問わず多額の退職金を、その困った人よりも早く渡すような勢い、そんな不条理を「詐欺」とか「裏切り」とか呼んではいけないのか、少なくとも「不信」というものの支配する世の中そのものに諦めかけていますが、たとえ本当に困った人が報われるような給付金がスムーズに出ていたとしても、懸念があります。
たとえば、学校からはタブレットが生徒にどんどん配付されていきます。これは当初から、そのような教育計画があり、やがてそのような環境になっていくことは既定路線でしたが、この時期に一度に出していくのにもやはりお金がかかります。公的な負担は、これくらいのことでは大したことのない額と言えるのかもしれませんが、不利な状況が重なる中での出費が、そんなに楽であるようには思えないのです。
無尽蔵に宝が出てくるのでしょうか。借入をあてにして、それでよいものなのかどうか。これで国家財政が破綻したら、給付金どころの話ではなくなります。なお吊り上げようとする株価にはリスクが伴わないのでしょうか。「無い袖は振れぬ」という諺があるけれど、いったいここでその「袖」とは何なのでしょう。
神の予算というものがあれば、不足することはないでしょう。それは無尽蔵で、人の思う量りを超えていることは確実です。そこで思い出すのが、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ14:2-3)というイエスの言葉です。私たちの居場所は、神の国にいくらでもある、と知らせてくれていました。
神は、人間から何かを借りてそれを人に回すようなことをする必要がありません。そもそも人間が食べるものも、降り注ぐ太陽の光や雨さえも、人間が提供するというものなどありません。与えられるばかりのものを、ただ受けているばかりです。人間が手を加えているのは、人々に分けて供給するためとなっていないでしょうか。そしてそこに私利私欲や支配欲が原理となって、不備や不公平、望ましくない悪い事態が生じていると考えられないでしょうか。
神こそが、無尽蔵であり、そのことが、「できないことはない」という意味であったと思われます。「神に持ち上げられない石をつくることができるか」と問うたり、「イエスは十字架から降りられなかったではないか」と揶揄したりすることは、神の全能を曲解しているに過ぎない浅知恵のようにしか見えません。私たちは人間であるに過ぎない、その足許から見える景色の中で、できることをさせて戴きたい。虐げられている人を助けたり、その声を増幅したりし、神の恵みに慰められるようにと祈り続けたいと願います。