誕生日

2020年6月17日

誕生日。生まれた本人が祝福を受けるのが通例ですが、両親にまず感謝する日であるという意見があり、本当にそうだと思います。でも誕生日とはいつでしょう。この世に生まれたといいつつ、生命現象はだいぶ前から始まっていたわけです。さらに刑法や民法の規定によると、どこからが人として認められるのかといったややこしい議論もなされ、決められています。それぞれ、誕生日の意味が違うとも言えることになります。
 
単独で自ら呼吸をし、母体から離され、別の個体となった、これが普通に言う誕生でしょう。けれども、一人で食っていく、つまり生活していくようになることを考えに含めると、誕生とは何だろうと考えさせられますし、プロ選手が誕生したなどという幕開けをそう呼ぶこともありますから、比喩的にも様々な捉え方を私たちはしていると言えるのでしょう。
 
キリスト者は、新しく生まれる、いわゆる「新生」の体験をもちます。これを洗礼の儀式だとする考え方もありますし、イエスから個人的に救われたという出会いの体験をしたことを以て新しく生まれ変わった意識をもつということもあるでしょう。タイミングはいろいろありそうですから、これを一義的に定める必要はないかと思います。
 
新しく生まれなければ神の国には入れない。立派な社会的人物としてのニコデモは、このイエスの言葉にとんちんかんな答えをしたため、私たちは嗤いそうになりますが、たぶん私たちの返事はニコデモにまでも至らなかっただろうと思うのです。キリスト教を信じています、などと公言しながら、ひとの悪口を言いまくり、自分の聖書の読み方が絶対に正しいと言い張るような人の有様をインターネットで目にすると、ニコデモの求道精神には感服する思いがするのです。
 
子どものようにならなければ神の国には入れない。イエスはそのようにも言いました。こうして見ると、新しく生まれるということは、子どものにようになることなのかしら、とも思わされます。神の子どもとしてもらうことですから、さもありなん、という気もします。
 
誕生日ということから、新生の恵みにも思いを馳せたわけですが、私の場合は、結婚記念日というのも同一の日であって、これは妻のはからいによるものでした。しかもあの日は日曜日、教会の午後をそうした場に用いてくださり、民家の二部屋を以て会堂としていた小さな教会が、私たちのスタートとなったのでした。あれも見事な「誕生日」であったのでしょう。



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