「エール」への失望
2020年6月16日
たかがドラマ。目くじらを立てることはないのでしょうが、いわゆる朝ドラ「エール」にはがっかりしました。
スピンオフの週、それはそれでよいのです。コミカルに描くことも受け容れます。が、音さんのお父さん(洒落じゃないですね)が幽霊になって出てくる――それもまだぐっとこらえて許容しましょう――のが、閻魔大王云々の設定で、というのは、どうしたわけでしょう。音さんたちもそれをすんなり受け容れているという描き方。
本当はそうではなかったのでしょうが、ドラマ上、この一家は聖公会の信仰をもっていたはず。十字を切るようなシーンもありました。その父親が死んで閻魔云々のストーリーとなって、誰も何も不思議にしていないという制作姿勢は、あまりにもひどい。
そもそも子どもの音さんが、飛び入れで教会の礼拝と思しき中で聖歌隊に飛び入りで入り歌うということも荒唐無稽だった、初めのころのシーンでしたが、それはドラマだからと目を瞑っておりました。しかしここへきて、この幽霊と閻魔大王とがさも当然のように出てきているというのを見て、やっぱりそういう程度のつくりであるのか、と失望してしまったわけです。ムードだけで宗教を道具として使い、全くそこにリスペクトを払っていないという、考えようによっては差別的な利用をしているだけというふうに思えて仕方がありません。
ドラマなんだから。もっと寛容になりなさいよ。そう言われそうです。でもドラマひとつが人の命を奪う様をも私たちは目撃してしまいました。賢明な方はお気づきになると思いますが、それに類することが生じる可能性がこの場合あるのです。ですから、これは由々しき問題を含んでいると考えます。つまり、キリスト教信仰をもっていたキャラクターたちが、死んだらキリスト教の信仰していることには何一つならず、日本の素朴な民間信仰の通りになっていて、キャラクターたちも誰一人それに違和感すらもっていない、として描いてしまったのです。つまり、キリスト教は嘘ですよ、というメッセージを伝えていることになります(実際そのように受け止める人がいたことをtwitterで見ました)。ドラマを見た人すべてに、そのメッセージを送っています。私が不愉快に思っているのではなく、キリスト教は嘘だという宣伝を露骨にやっているということに対して、呆れ、また抗議しているわけです。「他力本願」の語の誤った使い方を、抗議表明によって公的には撲滅した浄土真宗とは異なり、いまだ「狭き門」の語の誤用に異議すら唱えないキリスト教界が、こんなドラマの小さな描写を問題にするはずもないことは承知の上で。
キリスト教考証をしているのは立教大学の方で、聖歌隊のところもちゃんと考証の上で描かれています。あれは番組制作上仕方がなかったのかもしれません。しかしこのスピンオフまでその交渉者のお墨付きでこんなふうに描き出したのだとしたら、無神経なことではないでしょうか。NHKの制作姿勢に「細部に至るまでこだわりを持って誠実に制作されている」と感銘を受けているそうですが、スピンオフにも感銘なさっているのでしょうか。
この制作姿勢のため、私はすっかりこのドラマに興味を失いました。残念です。
※ これに対して、表現の自由があるとして、信仰の自由を守りましょう、というよく分からないコメントが寄せられました。もしこれが、仏教(閻魔云々は仏教ですらないのですが)で描いたことを尊重せよ、という意味であれば、昔日本にあった恐ろしい弾圧の精神はいまなお生きていると思われ、身震いがしました。ここでは明らかに、キリスト教信仰を踏みにじっているのです。ストーリーとして必然的にそのような展開があるとして描くための表現の自由ならば、それはそれでまだ議論の余地がありますが、今回はそのようにはどうしても見えません。ごく自然に、あたりまえに、信仰というものを否定しているのです。明らかにキリスト教信仰をもって死んだ人が、閻魔や地獄という形で幽霊になり、しかもその信仰をもっていたはずの家族がそのことに何ら違和感を示していないという描き方は、キリスト教信仰というものは嘘なのだという決めつけをただした上でのものでしかなく、ストーリー云々の問題ではないのです。現に、そのような会話が家でなされたというtwitterを私は見ました。この後、教会学校の子どもたちが、このようなテレビの描かれ方を知ったとき、傷つくか、あるいは信仰を失うかという虞があります。また、このような偏見をテレビドラマが平然と描くことで、他の子からいじめを受ける可能性も十分にあると私は捉えています。アメリカでの人種差別が問題になっていますが、日本ではこの差別意識が問題にすらならず、自分が何を差別しているのか、という程度の認識しかもたないと言われています。ここで宗教差別が行われていること、それは宗教や信仰についてのあまりにも無関心と無責任さを物語っているとも言えます。また、これはキリスト教だから甘く見ているという風潮もあろうかと予想されます。もしこれが、イスラム教の信仰者が死んで、閻魔大王のもとから幽霊となってこの世に現れるといったストーリーは、恐らく絶対に描かなかっただろうと思われるからです。子どもたちに対する懸念は、杞憂に終わればよいのですが、表に出て来なくても、なんらかの影響はこの社会は及ぼすものなのだという点については、意見を引っ込める気持ちは全くないことは明らかにしておこうと思います。子どもたちは、おとなが思う以上に、いろいろ闘って信仰しているのです。教会学校の子どもたちを大切に気遣ってください。