ならず者
2020年6月13日
キリストとベリアルにどんな調和がありますか。
信仰と不信仰に何の関係がありますか。(コリント二6:15)
サムエルを育てた祭司エリもまた、息子たちの教育に失敗していました。息子たちは血の滴る肉を上手そうに食べたようで、女遊びも絶えなかったなど、手のつけようがありませんでした。聖書は「エリの息子はならず者で、主を知ろうとしなかった」(サムエル記上2:12)と称しています。この「ならず者」には「ベリアル」という語が使われており、パウロはこの名で知られる、一種の悪魔を引き合いに出して、神の目からきっちり線引きがされていることを明らかにしたと思われます。
オカルト研究者は非常にこういう存在を詳しく分類するなどしているそうですが、ざっくり悪魔としか呼ぶことのできない自分の見聞を情けなく思います。ベリアルやサタンやルシファーなどには、あるいはベルゼブルだのディアボロスだのといった名前の意味の違いなどについてはご期待なさらないでください。元来のカトリック信仰から生まれたともいえ、聖書を反映されることがしばしばあるウルトラマンシリーズでは、近年この「ベリアル」という強力な者が現れ、魅力あるキャラクターに仕立てられていたことが、どうしても頭に浮かぶという程度でありますので。
他の語であっても、聖書では時折「ならず者」という日本語が登場します。基本的に神に従わない野蛮な悪者であるのですが、士師「エフタのもとにはならず者が集まり、彼と行動を共にするようになった」(士師記11:3)とあり、このエフタはイスラエルをアンモン人から救って士師として6年間イスラエルを納めました。ですからこの「ならず者」はエフタが人々から疎外され離れて暮らしていたあたりの事情を表すための言葉であったように思われます。
エフタとくれば、なんといってもその娘の酷い話が有名です。その戦いに勝利したら、自分を迎えに家から最初に出てきた家畜をいけにえにすると誓願していたところ、家畜ではなく娘が真っ先に出てくるという想定外のことが起こり、誓願通り娘をいけにえにしたなどと書かれてあるのです。この娘の死を悼んでイスラエルの娘たちは年に4日家を出るという「しきたり」が士師記に記録されています。
ダビデが、サウルから逃れて荒野を旅する中で、「困窮している者、負債のある者、不満を持つ者も皆彼のもとに集まり、ダビデは彼らの頭領になった。四百人ほどの者が彼の周りにいた」(サムエル記上22:2)という記述があります。「ならず者」とは書かれていませんが、世間的に見て「ならず者」のような者たちが、ダビデを囲んでいたように感じられます。もちろん、本当の「ならず者」は、アビガイルの夫だったナバルや、戦いの取り分について公平であるようで実は強欲な主張をした兵士たちのことを呼んだのではありましょう。ダビデに逆らったシェバが、ダビデを「ならず者」と罵るような場面もありました。
このダビデは、ヘト(ヒッタイト)人ウリヤを謀殺し、その妻バト・シェバをものにします。前代未聞の大罪にも拘わらずダビデは赦され、やがてバト・シェバとの間に授かった子ソロモンが、イスラエルの栄華を極めることになります。
新約聖書で「ならず者」という訳語があるのは、テサロニケでパウロに対してユダヤ人たちが妬んだ結果「ならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ」(使徒17:5)たとあるだけです。
しかし、ロマンチックな思い込みを私たちがしばしばしている、クリスマスの羊飼いたち、この羊飼いたちというのが「ならず者」と見なされていたことを忘れることができません。教育を受けず安息日を守ることもなく、動物を殺し皮を剥ぐ、見下される存在として町にも住めなかった羊飼いたちは、市民から見れば野蛮人であり、ならず者に違いありませんでした。イエスの誕生は、外国人の博士たちと、このならず者の羊飼いたちの訪問を受け、祝福されたという物語でありました。
イエスは、私たちクリスチャンからのイメージからすれば、気品があり高貴なお方という思い込みがありますが、大食い大飲みで、罪人たちと共に食事をし、感染症患者にも触れるなどしていましたから、これは「良識ある」律法学者たちからすれば、とんでもない「ならず者」であったのではないでしょうか。
それでも、「キリストとベリアル」には関係がないのです。エフタの手下にしても、ダビデの部下にしても、そしてもちろんイエスにしても、人からどのように見られていたとしても、悪魔の側の「ならず者」にはなりませんでした。
ダビデを選び出すとき、主はサムエルに、「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サムエル記上16:7)と言います。私たちはしばしば、人の目を気にします。気にすることは結構なのですが、人の目を第一にしてしまうことがあります。イエス自身でさえ「ならず者」と思われていたであろうことを心がけつつ、世にどっぷりと浸かることから外れる「ならず者」と呼ばれることを恐れずに、「愛のならず者」とさせて戴きたい、とも思います。