伝わる説明・伝わらない気持ち
2020年6月7日
ひとに説明をするというのは決して簡単なことではありません。自分が説明する側にいるとなかなか気がつかないものですが、説明を受ける側になると、深刻に味わうことになります。
機材の使い方を教えてもらったのですが、そもそもどのような始めるのか、入り方はどうするのか、そうしたことから知りたいのですが、そこは曖昧にして、きっちりとした説明を受けなかったのです。そして作動した中で、これもできる、あれはできない、などとわいわい話し合うような場となりまして、それはそれで面白かったのですが、そもそものスタートとエンドとについて、疑問が残りました。つまり、どうやって始めるかということについては、もやもやとしたままで終わったのです。
依頼を受けました。ちょっとしたデザインですが、使用目的が伝わりませんし、素材はあるのですが、きれいにまとめてください、という程度の言葉しかありません。作るものの規格も不明で、大きなサイズなのかどういう比率なのか、情報がないのです。これは困ります。後から尋ねてそこを教えてもらい、最初の文章を読むと、確かにそのように受け取れないこともない、という部分はありましたが、まるで暗示のように触れられていても、私は鈍いので、ピンときませんでした。
言わなくてもだいたい分かるでしょ、と頼む方は気楽であっても、頼まれるほうは全く分かりません。きっちり、この目的はこうこうで、これはここに、ここはこう変えて、と指示があって然るべき場面であろうと思われるのですが、阿吽の呼吸でうまくやっておいて、などと言われても、無理です。
自分で書く文章が、揺らぎなく曖昧さを避けようと努めている人の依頼は、それなりに明確です。が、細かく指示してくるわけでもなく、けっこう考え込むのですが、スピリットは伝わっていますので、こちらもそれに応えようとします。そして、概ねそれには後から細かく注文をつけずに、受け容れてもらえるので助かります。最もまずいのは、うまくやっておいてと曖昧な指示しかしないのに、出来たものを見て、そうじゃなくて、ここはこんなふうに、と後から指示や修正をもちかけてくるケースです。最初からそう説明してくれていれば、こちらも悩んだり、手間を必要以上にかけたりせずに済むのですが、適当にやっておいてといって作業をさせた後に、こう直してくれとかこういう意味だったんだとか言われることが実際あるのです。
ひとに説明をするというのは、決して簡単なことではありません。言葉でデリケートな問題を扱う場合、チャットのように瞬時に更新できるものならともかく、一定のまとまりの説明を施すとなると、伝えるほうの頭の中にあることを明確に表すのでないと、伝えられたほうには、相手の考えていることを察知できるわけではないのです。もちろんビジネスでそんなことをしていれば仕事になりませんが、プライベートや小さな組織や関係の中であっても、いやだからこそ、誤解のないような伝え方は大切だと思われます。もちろん、この文章自体が適切に説明されていない、と言われそうですから、あまり大きなことを言うつもりはありませんが、自戒を込めて、いつも私の説明している学習内容が、子どもには難しいのだろうなぁと溜息をつきつつ、ようやく再開された職場に向かうばかりです。