献金者氏名って必要ですか
2020年6月3日
教会には「会費」というものでなく「献金」があることはよく知られるようになっていると思います。「献金」という言葉は世間ではどうしても「政治献金」という響きがまず頭に浮かぶのではないでしょうか。似ても似つかぬ、と思いきや、似たところもあります。「献金」は差し出すほうが額を決めるのです。もし「党費」や「パーティチケット」だったら、決められた額を支払うのでしょうし、「会費」もそうでしょう。でも「献金」は随意に額を決めることができます。
教会によっても違います。細かくは申しませんが、献金はするべきものとしながらも、その基準はいろいろありましょうし、額の多少で待遇が異なることも、おそらくないでしょう。献金をしましょう、というメッセージを時折語る教会もあれば、一切礼拝説教では触れないことにしている語り手もいます。
教会での献金には、大きく分けて、毎月一定の額を献げるものと、礼拝ごとに集めるものとがあります。その他、何か感謝の気持ちを献金という形で献げるということもあります。そして教会によっては、誰それがこれこれの目的の献金をしました、ということを毎週のプログラムである週報などに並べて報告するところもあります。さすがに額まで記す教会はないと思いますが、もしかしたらあるのかしら。名前なども一切出さないことにしている教会もあります。
誰それが献金をしました、という報告ができるということは、誰それの名前を記した献金の形式があるということです。礼拝の中で集められる献金は、ただその場で硬貨か紙幣を、まわってきた袋に入れる、というようなことになりますから、誰が献金したのかについては普通分からないはずです。毎月の献金は別封筒などの形にしますから、たとえ礼拝の中で献金袋に入れたとしても、名前が分かるという仕組みになります。また、「退院感謝」とか「入学感謝」とかいう名目の特別献金の場合も、封筒にその献金の理由が記されることになります。これら名前が分かるものについては、週報に載せることで、皆で、誰それが退院したのだ、よかったね、といった分かち合いができるという意味があるのかもしれません。
しかし、どうでしょうか。抵抗はありませんか。慣れた人は、そんなものだと気にしないかもしれませんが、たとえば、会計担当者には、誰それがいくら献金したということが明確に分かります。もちろん守秘義務はありますが、それでも知られたくないという思いは混じりませんか。会計の制度も教会により様々でしょうが、私が担当したときには、献金を誰がどのくらいしたかということのグラフでも作ろうというような意図はありませんので、記録の中では誰それがという情報は一切ありませんでした。でも、会計役員にはやはり知られることになります。
それはいいとしても、なんだか「献金しましたよ」と、右の手のしたことを世界に向けて叫ぶみたいな姿を嫌に思う人がいるかもしれません(マタイ6:3)。こっそり、神さまだけがご存じであればいい、というのが聖書を素朴に信仰する人のあり方であるとすると、教会が記名で献金を強いるということは、山上の説教のイエスの言葉を無視するように仕向けていると考えることができるかもしれません。
京都の教会はある時、牧師の提案で、一切記名献金をしない仕組みに変えました。献金箱が会堂に置いてあります。礼拝に来たときに、その投票箱のような箱に、それぞれが封筒を入れます。名前を書く必要は全くありません。人間には誰にも知られず、献金をすることになります。額については、まさに神のみぞ知ることになります。
こうなると、人には知られずに済みますから、これまでより額を減らす、ということもしやすくなるでしょう。牧師も、その可能性を考えないわけではありませんでした。けれども、何か神から示されたのか、ぜひと無記名方式を断行しました。あなただったら、どうしますか。ちょっと苦しいので、などと自分に言い訳をして、自分がふだんしている額より目減りした献金とするでしょうか。
結果。献金額が増えました。やはり、人に分からないならば減らしておこう、というような考え方をする、そんなことのできない信仰を、ふだんから教会は語っていたのです。むしろ、先の挙げたように、人に知られずに済むから、「施しを人目につかせないため」(マタイ6:4)、むしろ安心して献金をしていくんだ、というような信仰であったのではないか、と想像されました。
文化として説明しますが、京都人(ならずともでありますが)は、人目を気にします。たとえば、街で安い肉を買っているのを人に見られたら自分がどう思われるかということを考えますので、ひとつ高い肉を買います。見栄っ張りと理解してもよいのですが、自分がどう見られるかに意識が傾きます。それが貴族文化をつくり、京都の街を生みだした一面もあるように思われます。献金を無記名にすると、この人目が一切なくなります。だから、献金額が減るのか、というと、この教会ではそんなことはありませんでした。牧師が信仰とは何かを、適切に語り伝えていたことの証左でありました。無記名方式が、神と差し向かいになる場をつくり、献金をさらにしていくように一人ひとりの信仰を育んだ、という解釈はどうでしょうか。
教会は、神の国の大使館のようなものです。献金の基準を聖書に求め教える教会であって当然ですが、神の国の法に基づいて営まれる限り、聖書の様々な場面に聴きながら、しかし信仰生活全体から、考え直してみるというのは如何でしょう。やもめの2レプタの話などに献金の基準を置くべきではありません。これは献金とは別次元の話ではないかと思います。今回私が取り上げた、右の手のすること云々という点、すでに皆さまの教会では、考慮されていたはずだと思いますが、ほかにもいろいろ、ナーバスな話ではありますが、ふだん思っている考えを明かす話し合いがあったらよいと思いませんか。