オンライン礼拝ってどうよ
2020年5月28日
教会堂に集まることが難しかった中で、ネット配信という形で礼拝ができたことは、時代の恵みだったのかもしれません。しかし通信環境のない方や、そうした操作に困難のある方などは、そのつながりから零れるような気持ちでいたことも考えられます。ある意味当然のように主日に集っていたメンバーが姿を見せないという中、牧師はずいぶんと気を使い、また走り回っていたことかと存じます。集まった中で顔を見ながらひとつ言えば伝わったことが、一人ひとり伝えに行かねばならなかったり、相手の顔の反応が見えない不安の中に置かれたり、本当に大変でした。
インターネットのオンライン礼拝という形でもいいな、と思った人もいることでしょう。また、画面の前で正座して、教会にいるときと同じような緊張感をもって礼拝しなければならない、と叫ぶ人もいましたが、さて、どうだったでしょうか。確かに、少し前までは、男性はスーツにネクタイで礼拝に出なければ、という意識の人も少なくなかったし、またほぼそのような規則を掲げていた教会もあったように思われます。明確な規則がなくても、暗黙の了解として、ラフな恰好ひとつできないという雰囲気のところもありました。自警監視の厳しさみたいなものです。言ってみれば、その延長上の、「画面の前に正座」自警宣言だったのかもしれません。
スマホ画面で、という人もいたことでしょう。パソコンだと画面が大きくなり、臨場感が増したかもしれません。インターネットをテレビの大画面につなぐことができれば、かなり大きく自然に見ることができます。わが家はそれでいきました。
大きな声で歌うというのも難しい場合が多いでしょうし、ぎこちない礼拝式を経験していったという印象はないでしょうか。教会によっては、通常の礼拝式よりも時間がずっと短縮された場合もあるでしょう。また、俄に話題に上ったのが、讃美歌の著作権問題でした。この世のことですから、著作権は大切な考えですが、讃美歌についてそれを言い始めると、キリスト教界が自縛されてしまわないでしょうか。聖書の翻訳にも著作権は確かにありますが、それで何かしら制限をかけると、聖書の言葉を伝えられない、といったジレンマが生じるのと事情が少し似ているかもしれません。悪質な権利侵害は禁ずるとしても、もっとおおらかに神の言葉、神への賛美があってもよいのではないだろうか、とも思いました。
新型コロナウイルスの感染事情で、今後の生活様式の改変が必定となっています。毎年冬にこれくらいの意気込みで生活していれば、そもそもインフルエンザで何千人も亡くならなくても済むのではないか、とも思いますが、ともかく今後は、教会に集っての礼拝も、衛生観念を踏まえ距離を保つベースで営む必要があるでしょう。賛美の歌が歌えないといった可能性も頭に置きながら、しかし手話通訳者には通常のマスクを一律に強要してはいけませんから、シールドなどの方法を探しつつ、「きまり」というものも知恵と愛を以て定めていかなければならないことでしょう。いやはや、高齢者や持病のある方など、まずそちらに十分気を払うのでなければならないのは勿論です。動画配信でつながるのであればそういう形が続くことも道かもしれません。
共に集う礼拝を再開する教会の声があちこちで聞かれます。政府のかけ声に従うだけのような形でいいのかどうか、検討の余地ももあるでしょう。再流行の可能性も含めて、今後どうなるのか、今のところ分からないというのが実情でしょう。教会堂に集まらなければ意味がない、というのも健全な意見ですが、中には、説教や聖書そのものに実は関心がなく、自分が奉仕して褒められるのを快感とするような人がいるとするならば、リモートで純粋に聖書の言葉に集中していくことにより、真の福音を体験できるといったよいことが起こるかもしれない、と思うなどもありでしょうか。
非常時には、人間の本来の姿が表に出て来る、ということは私はたいへん明らかに今回分かったことですが、心理学的には十分警告されていたことのようで、いろいろ以前の本からも見いだすことができました。そしてそれはキリスト者であれそうでない人であれ同じことで、普通隠していた一面がどんどん露わになってきたことに、確かに人間なのだなと改めて知ることとなりました。私も、自身ではそう変わってはいないつもりですが、実は外から見ると顰蹙そのものという一人であるかもしれません。他の方々から見たらどうなんだか、私が決めることはできません。ある方は自身の言動に言及されたと感じたのか、何の反論や弁明もなしに、一方的に関係を切ってきました。その方の前進のために役立つことを願っての材料になることはたくさん提供していたとは思ったのですが、残念です。
非常事態宣言解除からの「緩み」が悪い結果を生めば、そろそろその様子が現れてくる頃でしょう。北九州では施設を再び閉じるなどの措置がとられています。教会はまだこれから再開となりましょうが、今後の教会の礼拝のあり方、活動の仕方についても、まだ先々を決めかねる情況にあろうかと思います。オンライン環境にない信徒にはタブレット貸与なども可能かどうかを含め、そもそも会堂まで足を運びづらい方へのツールが調うとすれば、継続して利用することも検討していくことが求められるのではないでしょうか。
もちろん礼拝とは何かということを考えた上での必要性はあろうかと思いますが、その際妙な精神論や過去との比較でなく、しかしまたバラ色の過信も控えつつ、使える手段は工夫してよいのではないかと思います。いつも同様のことを想像するのですが、もしパウロがネット環境にあったら、全然違う手紙を書いたかもしれませんね。私の想像では、パウロは上手に活用しただろうなぁ、などとも思い浮かべ、少し空想世界に浸ってみるのですが、この愉しみは、不謹慎でしょうか。