言葉の背景の了解

2020年5月24日

「コロナ」と略すのは、新聞の見出しだからというのではなく、普通の会話や報道、記述でもよくあることでした。もちろん「新型コロナウイルス」と呼ぶべきところを、「新型コロナ」さらに削ぎ落として「コロナ」で通じるとするのです。
 
私たちはそのように略します。本体の概念がCであるとします。Cにはいろいろあるのです。そのうち特定の特徴をもつ、当該の対象にまつわる形容詞をAとします。「コロナウイルス」であれば、これは何かという問いに答えるならば「ウイルス」ですから、これがCです。その観察される形が太陽のコロナあるいは王冠のようであるということで形容する言葉が「コロナ」であり、これがAです。今回の場合は、そのような「コロナウイルス」はすでに人類が対応できていた従来型のものも含めて多々あったのに、初めて遭遇したために、もうひとつ形容詞がついて「新型」の語を添えました。すると、「コロナウイルス」がCであり、「新型」がAである、というような捉え方も可能になります。
 
報道も日常会話も、「コロナ」で十分通じました。それが「ウイルス」の特定のものであるということは一般的に了解されていたからです。「新型コロナ」という、「ウイルス」を差別化するための形容を以て、当該の対象のことを言っているのだという共通理解が広まっていたことになります。もしも、1年前に突然「コロナ」という語を私たちが聞いていたら、太陽の観測をしているのか、と思う人や、ストーブのメーカーかな、と思う人や、あるいはトヨタの車か、と思う人がいたのではないでしょうか。
 
本来「AC」と言葉をつないで初めて対象を指す語となるべきところを、概念Cについては了解がある、という前提で、私たちはCを略してAだけを言って済ますということがよくあります。
 
「コンタクト」入れてる? などと訊くと、言葉の意味としては不自然になるでしょう。「接触」を入れるのはおかしいし、もしかして「連絡先」を入れるならまだ分からなくもないわけですが、私たちはこれをおよそ一般的に「コンタクトレンズ」を入れたのかという意味で用いています。「コンタクト」は何の名称かというと「レンズ」に違いありません。しかし「レンズ」のほうは口に出しません。「コンタクト」はかなり市民権のある言葉で、突然「コンタクト」と聞いたときに、殆どの人は「コンタクトレンズ」を理解するようになっているのではないかと思われます。
 
「定期」買って来て、というのも言葉としては変です。これは「券」というものの名称ですね。けれども私たちは「券」の1文字、1音すら惜しんで略して、「定期券」のことを「定期」と言って済ませています。いや、実は「定期乗車券」が本当ですから、だいぶ略しているのは事実なのですが。これは「定期便」とか「定期公演」とかいう語もあるため、一応場面がある程度制限されるかとは思いますが、「定期」という言葉で「定期券」のことを指して使っていると言えるでしょう。中には、本名が「定期乗車券」であるということを知らない若い人がいるかもしれません。
 
「牛(ぎゅう)」とだけ言えば、普通「牛肉」のことでしょう。それは概念としては「肉」ですが、もうその「肉」であることは了解した上でのお約束で、豚や鶏ではなく、「牛」だよ、と差別化してそこだけを言って済ますのです。
 
近年だと「ケータイ」というのには最初抵抗がありました。「ケータイ」もってる? と訊かれれば、携帯というのは持っていることに違いないじゃないか、と怒り出す人がいたかもしれません。「携帯電話」はもちろん「電話」のことです。それを、「固定」しないで持ち歩く、つまり「携帯」できる電話なのですよ、という差別かをした部分だけを取り上げて、「電話」とは言わなくても通用するくらいにポピュラーな概念となっていったことになります。
 
では「インスタント」はどうでしょう。これは少しその人や場面によって、イメージするものが異なるかもしれません。「即席」と呼ぶことは若い人にはないかもしれませんが、「インスタント」なら「ラーメン」もあるし「カメラ」もあったんですね。「コーヒー」はどうですか。「ドリップ式」や「本格的」といった限定と区別した形で、お湯を注げばすぐにできるコーヒーを「インスタント」とだけ呼ぶことがあるのですが、これまでの例に比べると、意見が分かれるかもしれませんね。脈絡なしに「インスタント」忘れないで持ってきてね、だけで済ますと、コーヒーかラーメンか、食い違いが生じるかもしれません。概念Cの共通理解が不十分だと誤解が生じる可能性がある、ということです。
 
会話は、すべての会話を正式名称でする必要はありません。コンピュータのプログラムでしたら、同じ名称でなければ受け付けない場合があるかもしれませんし、学会の発表や論文だと、略すという但し書きがない場合には、誤解されないように同じ語を繰り返すのが通常でしょうが、日常会話ではいちいち長々とした語を繰り返すことはないでしょう。しかも日本語は、言わずもがなの精神なのか、人の名前を持ち出さないで会話を済ませようとしがちですし、第一主語をわざわざ言わない文がむしろ自然であるとさえも言われます。国語を研究する人の中には、日本語には主語などいらない、とはっきり仰る方もいるようで、そういう文化でやってきたのだというのも一理あるかとは思います。
 
それは、一定の概念Cについての理解を互いに共有している者同士が話をしているからです。「インスタント」を、コーヒー会社の人とラーメン会社の人が同時に聞いたら、別のもので伝わる可能性が出て来てしまうでしょう。「朝」何だった? の質問も、朝食のことだな、と思える相手や情況であればこそ、成り立つ文であるということになります。
 
一定の概念Cを前提として理解している間柄だと、言葉はより簡潔に通じやすくなります。もしもその概念Cそのものを知らない人がそこにいると、まずその概念Cとは何のことか、というところから説明しなければなりません。もし「コーヒー」を知らない人がいる場で、「インスタント」という語を使おうとすれば、まず「コーヒー」とは何か、それには「サイフォン」や「ドリップ」や「フレンチプレス」や「エスプレッソ」などの抽出法があるのだが、それらではなくて……と説明をしていかなければならないでしょう。非常に厄介ですが、どうしてもその人に「インスタント」のことを知らせようとすれば、そうしないとなかなか伝わらないということになるはずです。
 
教会が伝える言葉を、礼拝説教の中で一から全部解説することは不可能です。けれども、何も説明せずに教会用語・聖書用語を連発すると、何も伝わらないことになりかねません。むしろ、専門用語ばかり並べて難しいところだ、とか、威張っているんじゃないか、とか、悪いイメージを与えることになりそうです。
 
イエスが語った言葉は、差別を受けていたり、文字の読めなかったりする人々にも伝わる言葉でした。もちろん、神の教えの深いところは伝わらなかったかもしれませんが、少なくとも、聞けない内容ではありませんでした。野の花や空の鳥、また誰にも想像できるような譬えを用いて語りかけました。律法学者への反論にしても、周囲の誰もがそれを聞いて驚くほどに、分かりやすい言葉だったように見受けられます。
 
多分に、「哲学」というものもそうでした。ソクラテスが登場するプラトンの著作を見ると分かるのですが、翻訳でも和語のオンパレードで、用語そのものが難解ということはまずないのです。一体どこで、哲学が専門用語の居並ぶものになっていったのでしょう。
 
聖書の翻訳も当初からたいへんな苦労があり、工夫がありました。「神」でよかったのかどうか、「聖」にもちゃんとした解説を経た上でなければ適切に意味を受け取ることができないというありさまで、一つひとつの語に、相当な理解を要する語が並んでいることになります。
 
取り上げた聖書箇所(ペリコーペ)から取り次ぐだけでも、一定の時間の枠の中ではたいへんな配慮が必要になると言えます。しかも、それを機械的に、授業のように語ればよい、というものでもありません。この難問を解くためには、ある程度のこのような理解や心得も必要ではあるのですが、もっと大切なことがきっとあるはずです。それが何であるかについては、ここまでで私はくどくどいつも話してきましたので、今回はそちらに続く、というだけの結末にしておきます。ただ、内輪だけで通じる言葉ばかりを、勝手にそれが誰もが分かっているかのようにおめでたい勘違いをして、一方的に原稿を読み上げるだけというのでは、あまりにも悲しいことであるかもしれない、と呟いておくことにします。たとえ信仰深い信徒であっても、聖書の隅々にまで通じていることは、まずありえないのですから。



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