豊かな交わりの必要性
2020年5月20日
緊急事態宣言が福岡県において解除される前あたりから、少しずつ街が動き始めました。わが家では医療と教育に関わっていますが、教育の方では当初動画配信、そのうちZoomを少し用いての時間もつくるようになりました。動画はいわば一方的に情報を流して、あとは生徒のほうがそれを受け止めて努力しているのだろうという見込みの中での営みでした。
授業動画そのものは、普通の授業と同じで、質が悪いわけではないと思います。その気になれば、何度でも視聴できるので、分からないところは止めたり繰り返したりゆっくり理解しようとすることも可能です。質問ができないので不安はありますし、怠けて見ていないかもしれないなどといった不安はありましたが、コンテンツそのものはよくできたものだと思われましたので、概ねの効果はあるのではないかと少しは楽観もしていました。
しかし、しばらく動画によるカリキュラムが進んだ後に、Zoomで様子を確認したところ、予想した以上に、理解ができていないという印象をもちました。というより、生徒により様々なのです。うまくこなしている生徒ももちろんいますが、元々学力的に不安のあった生徒ほど、全く理解が進んでいないというように、差が大きく開いているというのが妥当な説明になろうかと思います。
私の時代(地域)はそもそも塾自体多くなく、私の場合、学習参考書と問題集を揃えて取り組む、というのが学習スタイルでした。当時学年別の雑誌がありましたから、テスト対策といった附録も含め、テストの情報も多かったため、よく読みさえすれば不安を抱く必要はあまりありませんでした。けれども昨今の子どもたちは、参考書と問題集という学習スタイルではなくなっているように見受けられます。私などは、まず不明点は辞書を引くか、参考書で探すかしたものですが、今は、自分で辞書を開いて調べるより先に、まず誰かに尋ねるというところから入るわけです。ちょっと辞書で見れば分かることも、とりあえず訊く。あるいは、分からないままにしばらく固まっている、というところでしょうか。
アクティヴ・ラーニングの概念が取り入れられてきたのは、互いに学び合うという、一定のコミュニケーション能力を育てる目的があるのでしょうが、誰かに教えるというのは、自分の理解力を高めるために非常に有効です。私も、誰かに解き方を尋ねられ、それを説明する中で、自分がまた教えられるというような思いを経験してきましたし、それはいまなおそうだとも言えます。訊かれなかったら意識しないことが意識に上るわけです。
つまり、人との交わりというものが、大きな力をもっている、ということを改めて知ることになったということです。動画での学習は、テレビをただ見ているようなものでもあるし、双方向のコミュニケーションがありません。自分が誰か生身の人間と出会っているという実感がありません。自由に止めたり繰り返したりできるとはいっても、いわば参考書相手に学習する習慣がなかった子どもたちにとっては、息吹を感じられない、よそよそしい対象としてしっくりこなかったのではないでしょうか。
それでも学習できるタイプの子は確かにいます。学習内容そのものに関心が深く、よそよそしい対象とつきあうのが楽しいというタイプだと、動画学習の良いところが活かせたことでしょう。でも、そうでないタイプもいるということです。人肌の温もりの中で、学んでいくことを得意とする子は、ただの動画での学習は、内容の理解や定着へと進み難いことが多々あるのではないかという印象が与えられたのでした。そのような子にとっては、Zoomでこちらが語りかけて反応を確かめるというひとときが、何らかの良い刺激になったのではないか、とこれまた楽観的ですが、考えてみたいと思いました。
医療現場では、感染の問題が深刻です。クラスターの多くが病院です。元々院内感染の問題は常に懸念されており、緊張感が常時ある現場ではあるのですが、如何せん新型コロナウイルスは感染力の強さの点で従来の比ではありませんでした。そのため、マスクはもちろんのこと、シールドや防護服が用いられるべきだということで、感染流行初期に中国からのニュースで宇宙服のような恰好の映像を私たちが見た、あのような姿が日本でも日常となってきたのでした。
もちろん、それは必要なことでした。けれども、この感染症の患者が集まる場所でなければ、いわばこれまでの病気、日常的な具合の悪さのために病院に来た人にとっては、まさにシールド(盾)が間に立ちふさがって対面していることになりました。その姿で「よくなってきていますよ」とか「お大事に」とか、かつてと同じ言葉を投げかけられても、その言葉に含まれる心までが、シールドに遮られているような気持ちになるのではないでしょうか。お年寄りには限りませんが、患者は、何も薬剤と処置により機会のメンテナンスのように体を扱われて治るというものではなく、「今日は好い天気ですね」とか「お孫さん可愛いでしょう」とか、笑顔で交わされる何気ない会話による癒しというものが実際にあると思われるのです。それがこの防護態勢の中で、何ら和みもなく向き合っているとなると、治癒が妨げられるということが予想されないでしょうか。
人との豊かな交わり、コミュニケーション、それが大きな意味をもつと改めて思います。教会でも、礼拝を通信手段を用いてなんとか同時性をもち共に心を合わせていくという努力をしています。インターネット環境のない人のことが課題ですが、そればかりではありません。ネットでつながっているとしても、この動画配信授業や防護服のように、直接的な、ほっこりする心の通い合いの消えた環境にあるのと同様に、問題が含まれることが懸念されることになります。そのため、牧師の中には、定期的に信徒の家庭を巡るということをしている人もたくさんいます。連絡の印刷物を届けるという名目で、とにかくちょっとでも顔を見る、言葉をかける、そのために各地を駆け回っています。そのため、各種集会や会議がなくなったとしても、よほど忙しくなったということになっています。でも、大切なことなのだろうと思います。そのお努めが報われますように。ネット礼拝だと信徒のほうは牧師を毎週見ていますが、むしろ牧師のほうが信徒の顔が見えないために、ロスを感じているというふうでもあるようです。
さて、私たち信徒の側でも、考えてみましょう。自分にとり、聖書はどうですか。よそよそしい対象物、ただのコンテンツに過ぎないようなものになっていないでしょうか。知識の対象、息吹の感じられない文字や教え、そんなものになっていないでしょうか。双方向のコミュニケーションはいわば祈りでしょうか。人肌の温もりを感じるというのは、聖書の言葉が生きた実感のもてる実生活に適用されているということを意味するでしょうか。そもそも神と出会い、深い交わりをなすという意味での「知る」という聖書独特の言葉を経験しているかどうか、その信仰の根本的なところも、問われているのかもしれません。