読書感想文を書く練習をしましょう

2020年5月18日

好きな子は好きなのですが、概して子どもたちは「読書感想文」が苦手です。だから教室では、とにかく楽しい気分にさせることが一番だと考えています。ちょっとした間違いを指摘されると子どもは萎縮しますから、間違いは気にしないで楽しく書こうね、と言い続けます。
 
とはいえ、戦後教育において、かつて形式も内容も決まったものを書くしか許されなかった時代の反動で、そして民主主義教育が強いられた(自家撞着?)中で、作文が須く「自由に書けばいい」としすぎたのは、逆に萎縮させることとなりました。何でも自由に書いてよいということは、何を書いてよいか分からなくなる、ということになります。作文の題材を見つけるところから始めなければならないのに、それが大変であったわけです。
 
インターネットを検索すれば、「読書感想文の書き方」を教えてくれる声はたくさん見つかります。しかし、どれも同じようなことを、と思うとそれがかなり違っていて、着眼点は人それぞれです。また、同じ「読書感想文」でも、目的や場面によっては、書く姿勢が違ってきますので、検索するときにはいろいろ見渡してみるとよいかと思います。
 
その中で、私が今回強調したかったことが全面に出ているアドバイスがありましたので、リンクしておきます。「家庭教師のファミリー」というウェブサイトが、語りかけるように教えてくれています。
 
そこではまず「読書感想文で書くこと」について、次のように挙げています。
 
 
・本の紹介とあらすじ
・本を読んで新しく知ったことや心が動いたこと、自分の考え
 
本の紹介については、あまり長くなりすぎないように注意しましょう。
あらすじは目安として、全体の文字数の1〜2割程度です。すっきりまとめてください。
あまりあらすじを書きすぎると、単なる「本の紹介文」になってしまいます。
 
読書感想文の読み手にとっていちばん興味があるのは「その本を読んだあなたの心がどのように動かされたか」です。[引用終]
 
 
小学生に書かせる前に私が必ず先ず掲げておくのが、こうした形式です。小学生がよくやるのです。本の内容が心に残ったのでしょう、ひたすら物語のあらすじを書いて終わりとするもの。あるいは、あらすじをたっぷりと書いて、「おもしろかったです。みなさんにも読んでほしいと思います」で結ぶというパターン。確かに一応形にはなっているんですね。しかし、これは上のサイトが記したように「本の紹介文」です。よく書いたという事実はほめることにしていますが、全く「読書感想文」にはなっておらず、「読書感想文」としては最低ランクの評価となってしまうでしょう。何しろ感想らしい感想が「おもしろかった」だけであったり、何もなかったりするのですから。
 
子どもの気持ちはよく分かります。本を読んで、自由に書きなさい、と言われたら、素直に子どもはこんなふうに書くものです。
 
「この本は、……というお話です。おもしろかったです。皆さんも読んでください。」
 
だから作文は「自由に書きなさい」では、子どもはどうしてよいか分からない、というふうに国語教育に物申したいところですが、さらに多いパターンは実は、「この本は、……というお話です。」の部分で終わるもので、自分の心の中に起こったことを客観視するようなことは非常に高度な心理ですし、ましてやそれを読んだ他人がどう見るかなどということを子どもに要求するのは無理というものです。中には天性のものか訓練したのか、それが分かっている子どもがいて、稀に素晴らしい感想文を見いだすことがありますので、それはもう学校に一人サッカーのずば抜けた子がいたり柔道で全国大会に出る子がいたりするというような意味ですごいのです。多くの平凡な子に、少しでも心の中のものを表現させるために、現場の先生は苦労していますし、そこは教育の技というか効果というか、けっこう頑張っていらっしゃることと思います。
 
確かに、本の内容について何らかの紹介は必要です。読んだ人に、感想を理解してもらうために最低限のあらすじは必要と考えられます。しかし、主軸は何かというと、感想であるはずです。読み手がいちばん興味をもつのは、「その本を読んだあなたの心がどのように動かされたか」である、とこのサイトは分かりやすく伝えてくれています。読書感想文の上手な子は、これを必ず心得ています。自分の感動をどう伝えようか、そこに的を絞り、そのために本の内容をどう説明すればよいか、策を練ります。つまり、あらすじを書くのが先ではなくて、自分の感想を伝えるためにあらすじを用いるのです。
 
しかしもちろん、最初この人も、これを書いてやろう、と意図してから本を読んだわけではありません。最初はひたすら本から呼びかけられるままに、自分の心全体をその本に委ねて、本の中に飛び込んで、物語の展開や特別な言葉に心を掻き回されて、そうして物語を経験していくのです。それから、その自分の体験、自分が変化したことを、誰かに伝えたい、そしてできればそれを聞いた人も、この本を読んで、自分と同じような、あるいは自分以上の感動をもってほしいと願いつつ、自分の感動、いや言ってしまえば感動した自分自身を示すのです。感想文の上手な子は、自然とこのようにしているのではないでしょうか。そのうち次第に、このようなルーチンを意識するようになっているかもしれませんけれども。
 
さて、長々とさして必要でもないように思われることにここまでお付き合いくださったことを感謝します。けれども、察しの良い方は、すでにお気づきだろうと思います。私が「読書感想文」の書き方をレクチャーしようとしてなどいないということに。そう、先に自分のことは棚に上げて辛辣なことを申し上げた、あのことです。
 
予めお断りしておきます。礼拝説教は、読書感想文とは違います。神の言葉を扱うものであり、聖霊が働くとか、神の言葉が出来事になるとか、いろいろなポイントがあるのであって、読書感想文を書くコツが、説教を組み立てるコツと同じであるはずがないではないか。その通りです。その質的な相違におまえは気づいていないのか、軽く見るな。いえ、そう言いたい気持ちだけはいまは我慢してください。
 
インターネットで、礼拝説教の原稿またはその要旨を公開している方がいます。福音伝道のためという、切なる動機がおありなのでしょう。会堂の中で聞いてくれた何十人かだけに聞いてもらうのではなく、いわば全世界の人に聞いてもらえたら、というような思いの方もあるかもしれません。それは私のような一般信徒でも、また牧師の皆さまにとっても、ひとつありがたいことであるとも言えます。いわば他教会の礼拝説教を知ることができるからです。もちろん、声色や話しぶりなど、文字によらない情報が、コミュニケーションでは大切ですから、書かれたものだけで全部分かるということはないはずですが、それでもおおよそのことは見当がつきます。少なくとも知識として役立つ場合は少なくないでしょう。
 
けれども、残念なものが少なからずあるのです。私を傲慢だと呼んでも差し支えありませんから、明確さを増すために表現しますけれど、見ていて恥ずかしくなるほどのものが。先ほど、読書感想文で素朴な子どもが書きがちな風景を示しました。「この本は、……というお話です。おもしろかったです。皆さんも読んでください。」これは礼拝説教の場合にも似ているように感じます。いえ、神学校ではこんなことは教えていないだろうと思うのですけれども、実際に見るもので、「この場面は、……と書いてあります」で終わるものばかり公表している人がいるものですから、そうした方が何かしら気づいてもらえたらという一縷の望みを以てこうして私は綴っています。
 
礼拝説教は、必ずしも聖書をよく知る人だけが聞いているわけではありません。また、教会に初めて来た人にも、聞いて何かを感じてほしい、という配慮や気持ちも当然あるでしょう。「あらすじ」や「解説」を抜きにした神学論文とは訳が違います。しかし、現実に時々あるのです。あらすじだけの文章が。タイトルには「説教」とか「説教要旨」とか勇ましく書いてあるのですが、書かれてあるのは「 」を多用して、聖書箇所の言葉をただつないで行っただけの、あらすじのまとめに過ぎない文章です。ちょこっと解説めいたものが入ることはあります。しかし、「だから信じましょう」「喜びましょう」で終わるだけの、残念なまとめです、と言いたいところですが、現実に見るのは、このまとめすらないものもあるわけです。
 
小学生の、読書感想文へのアドバイスには、もう一度引用しますが、このように書かれてありました。
 
 
あまりあらすじを書きすぎると、単なる「本の紹介文」になってしまいます。
 
読書感想文の読み手にとっていちばん興味があるのは「その本を読んだあなたの心がどのように動かされたか」です。[引用終]
 
 
そのような「説教要旨」を書く方の中に、私自身よく知っているのではっきり言いますが、神と出会ったことがない説教者たちがいました。救いの確信どころか、経験もないのではないかと思われる場合もありました。聖書の知識すらいいかげんである人もいれば、聖書の知識だけはよく勉強してうまくまとめている人もいました。しかし、しょせん「あらすじ」なのです。自分自身が神から言葉を受けたのでなく、つまり神と出会っていないがために、また自分自身のことを神を前にして問い直したり魂の内をかき混ぜられたりしていないものだから、「動かされた心」が存在しない故に、書かれていない、というのが的確な状況説明になるのであろうと思われます。
 
聞く会衆のほうも、そういう「説教」によく耐えられるものだと心配ですが、もうそんなものだと慣れて、聖書を教えてもらったような気持ちでほっとしているのかもしれません。
 
いえ、言葉が過ぎました。今のは本心ではありません。揶揄したいわけではありません。言いたかったことは、「読書感想文」にもなっていない代物が「礼拝説教」になるはずがないのですから、そうした方は、まずは本当に「読書感想文」を書くことから訓練されたら、何かしら変わっていくのではないのでしょうか、という提言です。明るいほうに歩み出たいと思います。もちろんお読みの殆どの方は、これに該当しないはずです。ただ、全員が該当しないというわけではない、というのも、悲しいことに事実なのです。どきりとした方がいて、もしも考え直して学ぶことから始めたら(但しそれは期待できないのですが)、きっと説教は変わってくるでしょう。命ある礼拝説教となる、あるいはご自身、今から救いの経験をなさるかもしれません。力ある説教、聖霊の働く説教は、案外具体的に、こんなふうに読書感想文を書いてみよう、というところから生まれ始めるのだという可能性もあるのではないかと考えるのです。辛口だし不愉快に聞こえたことかと思いますが、私なりのエールでもあったつもりなのです。



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