【メッセージ】ほかの国々の言葉・わたしたちの言葉
2020年5月10日
(使徒2:1-13)
すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒2:4)
外国語を話すのを見たことがある、という人もいらっしゃることでしょう。いわゆる「異言」という問題が、キリスト教世界にはあります。見解が分かれるところでしょうが、その是非についてはとやかく申しません。パウロが第一コリント書でかなり長く述べていますので参考にできますが、それとていまの基準で読むとよく分からない部分が多いものです。
しかし、訳の分からない言語というより、聖霊が降って外国語を話したというこの記事を見ると、聞いた人が、自分の国の言葉だとして驚いていますので、ちゃんとした言葉であったと記録されているのは確かです。だったら、英語の成績を上げるために、聖霊をください、と求める人がいるのでしょうか。
2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
事件は突然起こります。風が吹いたのではなく、音が聞こえたのです。マンションの少し高い階に住んでいると、強い風をよく受けます。確かに、ドーンというような音を聞くことがあります。風は、聴覚を通じて感じられ、しかも恐怖を覚えます。
2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
次は視覚です。舌のような炎を見たのではありません。見たのは舌です。お間違えのないように。まるで炎のようではあるが、それは舌して認識されました。エル・グレコが1600年過ぎに描いたとされる「聖霊降臨」の画を思い起こします。そこには使徒たちと共に、中央にイエスの母マリアがいて、やはりこの「舌」が降り注いでいる様子が描かれています。
この舌が、聖霊であるというわけです。聖霊が、見えたかどうか、確かにここでは視覚的に表現されているので見えたというのでしょう。そもそもイエスの十字架刑が過越祭のとき、その後除酵祭が一週間続くのでその間も復活のイエスは現れましたが、ヨハネが記したように、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて家の戸を閉めてがたがた震えていたのでした。ここではルカが、聖霊の出来事のことを記録していますが、時は五旬節、初夏の刈り入れの祭です。やはり人が多く訪れる街を間近に見て、いまなお恐れて閉じこもっていたのではないかと思われます。その弟子たちが、この「舌」がやってきた出来事を境に、変えられてしまいます。この後、ペトロが立ち上がって演説を始め、事の次第を見事に説明します。そしてその日のうちになんと「三千人ほどが仲間に加わった」(2:41)のでした。怯えていた弟子たちの姿か一変して、力強くイエスを証しし、街へ出て行くのです。あまりにも大胆に人格が変貌したので、この聖霊の力というのは半端ないものだと分かります。
2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした
外国語を語るという不思議な現象が起こります。それが確かに言語であるというのは、この騒ぎで集まった人々が証言しています。
2:8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
そうしてそれらは、「パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方など」(2:9-10)の言語であることが要領よくまとめられています。地図でこれを見ると、ユダヤ地方を中心としておよそひとつの円周上に並ぶような感じで、500〜1000kmほどの中に並ぶような恰好になっています。当時「世界」と見られたのは、こうした地域であったのだろうと思われます。この外にあるローマやイスパニア(スペイン)は、「地の果て」(1:8)と見なされたのではないでしょうか。
こうして騒ぎで集まってきた外国人たち、そう、この祭のために各地に散らばったユダヤ人がや、ユダヤ教を信じる外国人がユダヤを訪れていたわけで、彼らが都合良く、この騒ぎで外国語を話していることの証人となってくれたというのです。この人たちについて、その感情を示すと思しき表現を、この箇所から拾ってみることにします。かれらは「あっけにとられてしまった」(2:6)後、「驚き怪しんで」(2:7)こうした証言をしました。それから「驚き、とまどい」(2:12)ました。但し中には批判的な人もいて、「あざける者もいた」(2:13)とも書かれています。
この事件の主役は、聖霊でした。ルカはこれをよく強調しますが、聖霊というのは、神そのものだというのが伝統的な理解です。安易に説明することは避けますが、神は私たち一人ひとりにやってくる、そして内に住む、ということを強調する理解もあります。この聖霊は、ルカの描写によると、「音」を以て臨み、「舌」のように見えました。「舌」というのが気になるところです。
新約聖書の中で「外国人たち」のことはバルバロイという言葉で表されているのですが、これはいまなら差別語と目される言葉です。「外国語を話す人」という意味ですが、これは、ギリシア人たちが異国人の話す言葉が「バルバル……」と訳の分からないように聞こえるんだなと軽蔑して表現したもので、いまもこれを受け継いだ英語はbarbarianが「野蛮人」を表す言葉となっています。
外国人たちはまともな舌をもっていないんだよ、とギリシア人たちが都意識をもっていたというわけです。こうすると、「舌」というのは、言語並びに言葉というものを指しているものと理解できます。ではその「言葉」とは何、ということを問い始めると、ここが哲学の教室になるので、これはまた皆さまいろいろと調べたり考えたりすると楽しいかもしれません。
芸術、とくに音楽や絵画には言葉はいらない、という考えがあります。この考えに異を唱えた、なかなか分かりやすく良い本がありました。『音楽の聴き方』(吉田暁生・中公新書)で、音楽の歴史を知るにも大変優れた論考だと思いました。音楽を理解するには言葉が必要だ、というのです。むしろ、言葉抜きで音楽は伝わる、という思想が、人間を昂揚させて戦争に巻き込んでいったことに警戒をしなければならない、とも言っていました。楽団の指揮者なども、演奏の指導をするときに、必ず言語を使うのだそうです。それも、素人には分かりかねないような表現で注文をつけるので、慣れないと分からないのかもしれませんが、これは音楽の指導者にはよくあることのようで、歌の指導を受けている息子も、声の出し方などについての顧問の指導の表現が意味不明だとずいぶん悩んでいました。
言葉がなければ、伝わらないものがある。音楽でも、一定の形式を学んでおかなければ、それらは「音」ではあっても、「音楽」にはならないのだという。言葉で理解し、それを伝えるという営みがどこかにあるのだといいます。聖書の言葉は、芸術というわけではないでしょうが、言葉によって相手に何かを伝えたいと願って語ることになります。牧師の説教というのはその直接的な営みであって、聴衆に、この聖書の言葉を伝えたい、この語る言葉を通じて神と出会ってほしい、との願いをこめていつも語っているはずです。
私は悪いことをしてしまったと後悔しました。ある真面目な牧師に、教育の現場では、教師のほうがこう言えば分かると確信して生徒に説明をするのですが、なかなか伝わらないし、伝わらない宿命のようなものがありますね、と言ってしまったのです。「ののしる」という古語は、今の意味とは違うんですね、などと説明したところで、今の子はそもそも「ののしる」という言葉自体を、殆ど知らないので、教師の言いたいことは伝わっていないのであり、こうした例は枚挙に暇がない――この「枚挙に暇がない」はテレビ番組で殆どの雛壇の出演者が「そんな言葉は存在しない」と発言者を嗤ったというエピソードがありました――のだ、と。このように言うと、要するに説教でも、語るほうがこう説明すれば聖書の意味が分かるなどと目論んでいたとしても、聞く方にはさっぱり伝わっていないことが多々あるのだ、という現実を突きつけることとなり、その真面目な牧師にショックを与えてしまったのです。
自分が何か発見をして、あるいは目が開かれて何かが分かるようになって、それを誰かに伝えたい、あるいは伝えなければならないということがあります。その時に、自分にだけ理解できるような難解な用語を用いて、伝わるでしょうか。芸術に言葉は要らないなどと言って音楽を聴かせ、「ね、いいだろう」で共感してもらえるでしょうか。いわゆる「独り善がり」という言葉があるように、自分が楽しいからと言って相手が楽しいことが決まっているわけではないし、言葉を用いて理解を求めるように説明するなり説得するなり、努力をすることが必要です。言わなくても分かるだろう、という一種の甘えが、世の中にかなり不幸を呼び込んでいるような気がしてならないのですが、どうでしょうか。
今日の聖書の記事に戻ります。この「舌」のもたらしたものに注目しましょう。
2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
「ほかの国々の言葉」は、相手からすれば「自分の故郷の言葉」(2:6)です。それは「わたしたちの言葉」(2:11)だとも言っています。これは、集まった、外地に居留している人々に、自分の国の言葉である、と「伝わった」のでした。「わたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(2:11)と人々は驚いています。聖霊は、伝わる言葉をもたらしたのです。神の業を語っているものだと分かったのです。聞く者に伝わる言葉がそこにあり、しかもそれは神をそこに感じさせるものでした。神の言葉を知る者だけが分かって満足するような言葉や用語ではありません。かといって、人間が自分の知恵で、神の言葉をなんとか伝えようともがいているのでもありません。聖霊が、誰かに伝わる言葉をもたらしたのです。聖霊は、語るべき言葉とその意味を、ちゃんと伝えたのです。「ほかの国々の言葉」、つまり自分ひとりの言葉ではない言葉が生まれ、他者に伝わり「わたしたちの言葉」と言ってもらえるような言葉となり、私自身と他者とにとり、共に「わたしたちの言葉」と呼べるものへと育まれていくのです。
11:13 天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。
聖霊を求めるように、ルカはこのように促していました。それは神秘的な体験をしなければならない、という意味ではないだろうし、異言を語れということが言いたいのでもないだろうと思います。集まっただけの人々に、一人ひとり伝わる言葉をもたらす「舌」という聖霊を求めることを望んだのではないかと考えたい。「舌」は「不義の世界」であり、「全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます」(以上ヤコブ3:6)とまで脅していた書簡もありました。だから「舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」(ヤコブ3:8)とも言っています。私たちの「舌」には警戒をしなければなりません。しかし、神の「舌」は違います。神の「舌」は、私たちを、伝わる言葉に注目させます。神の言葉が伝わることを願うならば、人間の舌に頼らず、聖霊を求めようではありませんか。