人を見る目
2020年5月6日
子どもに勉強を教える「仕事」は高校生のときからでした。友だちの弟にちょっと教えていたことがありました。大学生になると、家庭教師を始めました。大家さんの子を教えて、最初は家賃分だけ戴いていました。その後も家庭教師は、ほかに3人していました。学習塾のアルバイトに応募して家庭塾に配属されましたが、そこが脱退するときその奥様に気に入られて私もそこに残ることとなった、ということもありました。
大学院を辞めるのと同時にYMCA進学教室に就職し、後に教室をひとつ(敗戦処理投手のように)任されたこともありました。その終わりと共に、故郷の福岡に戻ってきたというような経緯があります。
妙な身の上話ですみません。要するに、お金を戴いて子どもを相手にするということで生活してきたことになるので、子どもに対するとき、まずその子のいいところから見るのが癖になりました。褒めるべきところはどこか、必ずそこから接します。これは、どうやらひとつの癖になってしまいました。お陰で、多くの子どもと初対面のときから、一定の信頼関係を結ぶ機会が多いので助かっています。もちろん演技や偽りではないつもりです。子どもは、大人の見かけだけの優しさや偽りは、鋭く見破ります。言葉で理解する以前に感じ取らないといけない、どこか本能的な力なのでしょうか、最初から見抜かれますから、邪念なしで、その子のいいところを見ることからスタートするようにしているつもりです。
単にひとを信頼する、というのとはまた違います。でも騙されることもあるので、まずは信頼するところから入り、よくない意味でお人好しな面もあるのかもしれません。そんなによい人間でもないので、それこそ信じて戴けないかもしれませんが、大人相手でも、まずいいところから探そうとするのはひとつの傾向だと思います。
だから、人を見る目がないと悲しくなることも多々あります。ずいぶん後になって、この人はこんなだったんだ、と呆れてしまうことがよくあって、そうした人を見る目のない自分が悲しいのと、いいところを見つけようとした人がどうしようもない根っこをもっていることが判明して悲しいのと、ダブルで悲しい思いに浸るということになるのです。
中には、実に人を見る目をお持ちの方からいらっしゃいます。どうしてある人のことを厳しく言うんだろう、と不思議に思っていたら、後でその人がとんでもない人だということが判り、最初からそれを見抜いていたその方の、人を見る目に感服するという次第です。
えてして、教会にいる人は、そんなに批判的な眼差しから見ないでよいように考えています。ひとを信頼することは大切だと教えられるし、世の中と比べると、確かに比較的信頼してよい人が多いだろうというのも、決して的外れではないとは思います。しかし、教会に来ているから皆善人というわけでないし(ひとりもいない?とは今は言いませんよ)、かといっていきなり疑ってかかるというわけにもいかないし、人と接するのもいろいろ苦労があると言えるかもしれません。
だいたい教会に来るというからには、「なにかもっている」というケースが比較的多いことも承知です。自分だってそうですから不思議でないというのもそうですが、確かに「なにかもっている」人は少なくありません。これには、だいぶ勘づくようになってきました。もちろん、人にはそれぞれ何かあるでしょうし、それを聖書により、イエスとの出会いにより克服してきた歴史を各自がもっているというのも確かなのですが、なにかあるのは当たり前のことなのでしょうが、それにしても、信じました、という生活をしている人とて、かなり「なにかもっている」ケースは、枚挙に暇がありません。
これは牧師や役員も同様で、当然人間なのですから誰しもがいろいろ問題を抱えているであろうことは認めざるをえないのですが、それ異常に、そのステイタスが事態を拙くしていくという事例を、幾度間近で見てきたことか、思い返せば呆れるくらいに多々あります。そのどれもが、もっと早くに見抜く目を自分がもっていたら、あんなに大きな問題になることはなかったのだろう、という後悔を伴っていると言っても過言ではありません。相手が子どもであれば、まずいいところから接し始める、その癖が適切な批判の判断を抑制してしまうことがあるのではないかという気がしています。
いま、朝目覚めれば、これは悪夢ではないかと思われるような現実の中に立たされていることに落胆するような毎日です。いわば非常時ですが、非常だからこそ、日常の中ではぼんくらの私が見抜けなかった、人の本性のようなものが、けっこう露わになりやすい状況である、とも言えるかと思います。それで、「こういう人だったんだ」という経験を、ネットの上からいくつか味わいました。もちろん私もそのように見られているであろうことも予想します。「こういう人だったんだ」の体験が、いっそう鋭く言葉にする態度に出ているのかもしれません。傷つく人がいるかもしれませんが、恐らくですけれども、傷つくタイプの人は、そもそも私が呆れているタイプの人ではないのだろうと思います。だって、そういう優しさや弱さをお持ちの方に対して、私が呆れることは、たぶんないのですから。何の弁明も反論もなしに関係を切ってくるような方も問題ですが、自分のことが言われているのだと気づくことが全くないような方もまた別の意味で問題かもしれません。「なにかもっている」というその「なにか」は、実に様々なのです。そして、別にもっていたとしても、それはそれでよいのです。もっているそのままに、愛してくださる大いなる方が、私の友になってくださったのですから。