聖書は苦難の中にいる者を救う

2020年4月30日

そもそも聖書なるものが書かれたのは、どういう状況だったかというと、困難な状況、つまり苦難の中でありました。
 
新約聖書は、ユダヤ教の基盤から外れたキリストの弟子たち――尤もユダヤ教と別だという意識よりも、ユダヤ教の本当の姿が明らかになったというような意識に近かったのではないかと想像されますが――が、そのユダヤ人に、あるいは政治的に支配していたローマ帝国の力に、苦しい信仰状況を強いられている中で、迫害に耐えるための励ましのようなものとして記された、という背景があります。
 
旧約聖書は、世界を創造した神に選ばれた民族だという自覚を有していたイスラエルの宗教者たちが、一旦は繁栄した国を形成しながらも、巨大な帝国の侵略を受け、捕囚という民族崩壊の仕打ちを受けたときに、民族のアイデンティティを確かなものとする目的もあって、執筆あるいは編集されたものが多いであろうと目されています。
 
ああ、神を信じて私たちは幸せだ、うれしい楽しいことばかり。そんな気分の中で綴られた文章ではないわけです。私たちが聖書を求めるとき、そこに幸せを求めている、とざっくり言ってもよいかと思いますが、聖書それ自体は、人間が不幸と絶望のただ中にあったときに書かれたものであった、という点を見落としていてはならないのと感じます。だのに、時に「こうすれば成功する」「これが喜びの秘密だ」のようなものを聖書が与えてくれないように不満をもつことがあるとすれば、どだい木によりて魚を求むようなものではありますまいか。
 
しかし、です。新約ならば、正義を貫いた人が無惨に殺されたという話、旧約ならば、小さな民族が大国に滅ぼされつつ、その原因を自分たちの不信仰だと自虐するような話、そのどちらにも、そのような状況だからこそ、希望が語られ、喜びがあるよね、と慰める力があるというのも確かなのです。
 
そしてまた、神を信じていれば、いうなれば正義は勝つというわけで、敵を見返してやる結末が待っているんだ。そんな慰めや励ましもまた、この聖書には現れてくることは事実です。牧師の息子であったフリードリヒ・ニーチェはこの有様を、ルサンチマン(怨み)だと呼び、軽蔑するようになっていくのですが、確かに、この考えが気に入らない人もいるだろうと思います。それでも、少しこの希望にお付き合いください。
 
苦難のトンネルを抜けたら、喜びが待っている。こう信じることで、いまの苦しみを耐えることができる、それは人間のひとつの真実でありましょう。そこに希望があるし、逆にまたそんな空しい希望を抱く人間が哀れだ、という見方も成り立ちます。新型コロナウイルスは、命と経済に大きな害悪を人間に与え、不安で世界を染めていきました。その中で、このトンネルを抜けたら、という希望をもつことができる、そのためにも聖書はひとつの光を与えてくれると言えるでしょう。
 
だが、それでいいのか。人と人との物理的距離だけでなく、心の距離までとるようになっていかないか。そうなると、結束する力のない民衆にとっては、賢い計画者により人心を自在に操られるばかりの運命が待ち受けていないか、懸念されます。また、経済が立ち直ったら、という期待は、また地球環境を破壊する作業が熱心に始まるということを意味することにならないか、恐らくこちらは確実にそのようになるだろうと思うのですが、さて、それでいいのでしょうか。
 
ともあれ、絶望しないで生きていくためには、聖書は力になるでしょう。しかしまた、パンだけで生きるのではない、とあるように、私たちはパンによっても生かされるものですから、互いにパンを分け合う道が求められるのではないか、と、聖書を手に訴えていくことも必要だと考えます。聖書を伝えるというのは、聖書の「宗教」に勧誘して信者を増やすというためのものではなくて、愚かな自己中心主義の固まりで人間が不幸や滅亡へと落ち込んでいくことのないように、知恵をシェアしていくという方向性でも、捉えていくべきものではないだろうか、と、いま強く考えてみたい時ではないかと感じます。そこに、個人的な平安に留まらない、救いというものがきっとあると思って。



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