【メッセージ】元のもく網の未来
2020年4月26日
(ヨハネ21:1-14)
ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。(ヨハネ21:8)
ヨハネによる福音書は、他の3つの福音書とずいぶん違うと言われます。また、編集者も、元の書き手とは別人が書き加えて編集しているとか、特にこの21章はさらに別人が書いたのであろうとか、研究者はいろいろ調べて教えてくれます。たとえばあまりにも語彙が違うというのです。しかし今日は、私たちはここから何かを聞こうと期待しています。ひとつ、大切なことを共に聞きたいと願い、取り次ぎを致します。
それは「網」ということです。「網を引いて、舟で戻って来た」(21:8)、ここに心を集めたいと思います。そのために今日は、できれば聖書のこの箇所、21章1節から14節をじっくり見つめながら共に考えたいと思います。そのとき、とくにマルコによる福音書で美しい構造をなしていると言われる、「はさみこみ」の見方の知恵を少し借りたいと思います。これは、聖書のまとまった記事において、ABCB'A'のような構成が見られ、AA'のように初めと終わりが対応し、BB'とだんだん内側にその対応が見られ、中心にあるCに注目せよという知恵です。
慌てふためいたペトロを除く「ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た」(21:8)というのは、どういう場面なのでしょうか。まずこの1節から14節の最初と終わりが、次のようにこの物語の導入と結論としてきれいに対応しています。
21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。
21:14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
2節は、ここにいる7人ほどの弟子たちが挙げられ、登場人物が紹介される箇所です。これも導入の一部だと言えるでしょう。続いて3節と8節に注目します。
21:3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
21:8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。
漁に行くと行って出て行く弟子たちが、魚のかかった網を引いて戻ってくると理解できます。つまりこの箇所は、二つの物語が書かれているのであって、3節から8節、そして9節から13節の二つの場面があります。対応関係も、二つ別々に見たいので、次は4節と7節です。
21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
21:7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。
弟子たちは、岸に立っていて人物を、イエスだとは気づいていませんが、イエスの愛した特別な弟子が「主だ」と気づいたというお話になっています。ペトロも主だと認識したので、慌てて湖に飛び込みました。この飛び込んだというところが不思議ですが、今回横道と見なし、追いかけないことにします。ご容赦ください。
そして中央に二つの節が残りました。
21:5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。v
21:6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
5節は6節のレスポンスを招くための問いだとすると、私たちは6節に、より注目していくべきではないかと考えます。
21:6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
ここに大きな奇蹟が起こっています。プロの漁師であった者たちが一晩中漁をしても「何もとれなかった」(21:3)のに、謎の人物のの一言で引き上げられないほど多くの魚が網にかかったのです。そしてこれにより、その人物がイエスであることに気づきます。
しかし場面は、陸に上がってからの描写に移ります。ここでも対応に気を払いながら読んでみましょう。
21:9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。
21:13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
考えてみれば不思議です。すでに炭火があった、それはまだよしとしましょう。けれどもそこにはすでに魚がのせてあったというのです。これは、イエスが魚を獲っていたことを推測させます。しかし、そのような奇妙なことを了解した上で、ここに魚を持ち出したのは、「大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年」(6:9)の提供したものを、5千人の男たちの目の前で「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた」(6:11)という記事のように、イエスの体を象徴するパンと、イエスを信仰するときに当時用いたであろう魚(これについての説明は今は省きます)とがペアになっていることに基づくと捉えてみましょう。そして、「はさみこみ」の意識は、9節で「魚→パン」の順序で書かれているのが、13節では逆に「パン→魚」の順になっていることからも明らかであろうと思われます。
21:10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。
21:12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
イエスはどちらにおいても、ただ命令をしています。そして中心にあるのは、この言葉です。
21:11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。
ここは後半の中心にある、ということは、何かしら注目させたい内容である、という理解をしてみます。私は変な趣味から、この153という面白い数字について調べたことがあります。関心がおありでしたら聖書の数学―その驚異が非常にマニアックに紹介しているので、ご参照ください。ここではその本の一部、常識的な範囲で153についてお知らせすると、いわゆる「三角数」の一つとして、「1+2+3+……+17」であること、「9+11+13+15+17+19+21+23+25」も分かりやすいでしょうか。また「1!+2!+3!+4!+5!」というのも面白い。それから「ナルシスト数」と呼ばれ、「(1の3乗)+(5の3乗)+(3の3乗)」が153に戻るというもので、三桁の数としては「153、370、371、407」の4つしかありません。いずれにしても、何かしら不思議な数字です。当時これほどの種類の魚がいた、などという説がありますが、数字はしばしば象徴的に持ち出されますから、ここまで具体的にヨハネが記しているということは、きっと何かの意味がこめられていたのだろうと推測できます。どなたか興味があったら研究してみてください。
数字の話、嫌になってきましたね。それでは、この物語にあった二つの場面のうち、中心部にあった箇所を並べてみましょう。
21:6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
21:11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。
この箇所に集中して「網」というキーワードが並びます。尤も6節は、最初の一箇所だけが「網」という語であり、二つ目は原文にはなく、三つ目は代名詞となっていますが、ここでは日本語訳に従って取り上げますと、遠いほうから、「網を打ちなさい」と「網は破れていなかった」がつながっていくように見え、また「網を引き上げることができなかった」と「網を陸に引き上げる」とはきれいに対応していると言わざるをえません。舟につないだ網は、イエスから離れている段階では、引き上げることはできませんでしたが、陸に上がりイエスのところに来ると、網は破れなかったのです。
ヨハネによる福音書は、弟子たちが漁師であるという点を強調していませんでした。むしろ他の福音書が、前半部できちんと幾人かが漁師であること、とくに「人間をとる漁師」になるのだという誘い方をしていることを、きっちりと伝えています。この他の福音書の記述を何らかの形で知ったヨハネによる福音書の編集者が、福音書の最後の部分に漁師のエピソードを配置しても、不思議ではないでしょう。もしそうだとすると、網にかかった魚たちは、イエスのもとに集められる人々、救われた人々や教会を形成する人々であるように目に映るような気もします。
もうひとつ、これらの中間にも、「網」という言葉が登場していました。重要部の、さらに中央に配置された「網」、それがこの言葉です。
21:8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。
二百ペキスなどという単位も、他の福音書では見られないもので、黙示録にひとつあるのを除けば、すべて旧約聖書続編(6節)にしか使われない単位です。実数は、おそらく100メートル足らず。さて、飛び込んだペトロは安全に戻って来れたでしょうか。漁師だから大丈夫ですよね。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」などと言ったイエスの声が聞き取れたのも、静かな当時の環境なら大丈夫でしょうか。
いえ、そんなところに注目したかったのではありません。「ほかの弟子たちは」とあるのはペトロを特別扱いしている訳なので、ともかく弟子たちが「魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た」、ここに心を集めたい、と最初に言ったところに、ようやく戻ってきました。今日は、ここだけを覚えて帰り、世に出て行きたいと思うのです。
そもそも聖書で「網」は、あまりよい意味では用いられていません。罠に陥るとか、網に引っかかり捕らえられるとか、そんなふうに使われ、悪者がそうなるとか、主に従わないとそうなるとか、脅しめいた表現が目白押しです。唯一、エゼキエル(47章)にある新しい神殿の幻で漁業ができる平和を意味するくらいで、他は悪者を捕らえるためのものとされています。
マルコとマタイの福音書では、漁師であった弟子たちが、イエスに呼ばれて、「網を捨てて」従って行く場面が紹介されていました。ですから、そもそもこの復活後の出来事において、弟子たちが再び網を手にしているというのは、おかしなことでもあるのです。イエスが十字架につけられてから、彼らは再び網を手にする境遇に戻っているのです。少なくともヨハネによる福音書はそのように描いています。ペトロが「わたしは漁に行く」と言ったのは、その決断鈍る集団に、ペトロが一声挙げて導いていることになります。やっぱり元の木阿弥で、俺たちには漁師としてやっていくしかないんだよな、と諦めたかのようにも見えます。そう理解してもよいと思います。けれども、私はそう受け取らない感じ方をしました。
漁に行く。もちろんそれは魚を求めてです。それは生計のためでしょうか。復活のイエスを「見て喜んだ」(20:20)のです。そこから漁に出るというのは、挫折して元の木阿弥になったのだ、とは考えたくないのです。「漁に行く」というペトロの宣言は、「魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た」で結ばれています。人間をとる漁師となった弟子たちは、人間をとりに出かけることのシンボルとして、漁に出たものと考えてみたいのです。ルカのように、続編としての使徒言行録をもたなかったヨハネのグループは、こうして教会の成立とその後を仄めかします。「聖霊を受けなさい」(20:22)と言って遣わされた彼らが、人間を獲りに舟に乗り込むのです。
この「舟」というのは、新約聖書では「教会」を象徴するものとして扱われます。嵐の中で沈みそうになる舟にイエスがいると、雨も風も治まりました(マタイ14章・マルコ6章)。あるいは、「目指す地に着いた」(ヨハネ6:17)のでした。舟は、イエスを乗せている限り、嵐にも耐え、目的の地に導いてくれるものです。そこには弟子たちが乗り合わせています。弟子たちこそが、舟に乗る者です。これはキリストに従う仲間たちであり、まさに教会です。ノアの箱舟がまたその理想であるのかもしれません。
もちろん建物のことではありません。むしろ人であり、共同体のメンバーが「教会」であると言えます。漁に出た弟子たちは、まずは教会という共同体を形成します。キリストの指示するままに網を打ちましたら、魚が獲れました。網を打たなければ魚は獲れません。自分たちの力だけでは獲れなかったと言って卑屈にならず、また諦めず、イエスの言葉を待って、それに従うことです。すると、ちゃんと新たな仲間を得ることができました。この網を引いて、舟はイエスの許に戻るのです。復活のイエスの声に従って行動した後、イエスのそばに「戻って来た」(21:8)のです。「網」には153という謎めいた数の魚がいましたが、人間を網羅するような勢いの数字であると理解しておきましょうか。網は破れはしませんでした。教会につながる人は、いくらいても破綻しません。そんなふうに希望してみたいものです。
「魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た」という言葉を心に残しておきましょう。教会というつながりの中で、この世たる湖に網を打ちますと、確かな手応えが得られます。教会というつながりで、いつでもイエスのところに戻って来るのです。逆に言えば、イエスの言葉を聴くことを忘れないようにしたいし、イエスのことを忘れた議論に終始することをして、どこに戻ってよいか分からないような教会ではありたくない、ということです。さあ、そうしたら次は手にもつ「網」とは具体的に何であるのか、一人ひとりが教えてもらえるように、祈り始めようではありませんか。そこに、私たちの未来のヒントを探してみましょう。