罪の意識
2020年4月22日
ここへ来てひしひしと感じるのが、「罪の意識」ということ。元来日本文化にある「ツミ」とはまた違うものですが、聖書文化の中の「罪」の感覚がないと、やはり聖書の神や救いの経験は難しいだろうと思うのです。
かつては「神・罪・救い」を(頭だけでなく)知ることが、信仰の条件のように見なされていました。なんだかその強調がなくなって、聖書を趣味としたり、聖書を勝手に理解して満足したりする傾向が見られるような気がします。そしてそういう人の意見が幅を利かして、なんだかキリスト教とはそういうものだ、というふうに流され、移り変わっているような危惧を抱くのです。
私がもう古いのでしょうか。流行らないのでしょうか。聖書も、全く違って理解されるようになったのでしょうか。もちろん、私が経験したことや学んだことを絶対化するつもりはありません。さすがに私もその時代は知りませんが、かつて路傍伝道だとか幕屋伝道だとかがあったでしょう(若い人、意味不明ですよね)し、私もしたことがあるものではトラクト配布が必要と言われていましたが、プライバシーの考えやメディアの変化によって、これは殆ど無意味になってきているとも言えるでしょう。聖書解釈にしても、歴史上の理解、と私たちが呼ぶものがあるということは、私たちが聞いたこともそうやって歴史上のものになってしまうことを否定するわけにはゆかないわけです。
聖書はあまりにも多岐にわたって人間についての洞察を深めてくれます。その筆記者によっても個性豊かで違いがあるし、福音書に絞っても四者四様とでもいうべき個性が遺憾なく発揮されています。書かれた時代によっても思想が異なると言っても当然のことでありましょう。が、それがひとつの聖書という形に収まっている限り、ただの雑多な教えの集まりでもないでしょう。編集された時期の考えに染まっていると見なすこともできましょうが、それにしても、雅歌だのコヘレト書だの、すったもんだの末に取り入れられたというような話を聞きますので必ずしも誰かの気に入ったように寄せられた、ということでもないような気がします。
きっと、誰かが救われるためには、それらのどれかが何らかの形で必要だったのだ、というように私は捉えています。ある人には、雅歌があったかこそ神と出会えた、そんな場合があったなら、その雅歌は必要だから添えられたわけです。それを、雅歌は神の言葉じゃない、と葬り去ろうとする人がいたとしたら、神の救いの計画に反旗を翻ることにもなりかねません。
そうやって考えてくるとき、聖書というものが全体を通して、やはり貫いているものというものも何かあるのだろう、というふうにも思えてきます。その普遍性を取り出すなどという不遜なことは計画しませんが、たとえば、弱い者とか人間の弱さとかに対する支えや護りというものは感じられると思います。それと、人間が神になろうとすることへの強い戒めは必然だと言えるでしょう。
人間が神になる。それは深い意味で実に巧みに引きこまれる罠です。自分は何をしてもよい、そう考えはじめたら、その罠に陥っていることになるでしょう。自己義認は非常に危ない傾向です。だからまた、自分がこれをしたらいけないのではないか、という自覚が求められることにもなります。さらに思いが及ぶならば、それが律法的に禁ずるというよりも、自分がこれをしたら、人を傷つける、人を殺す、そうした意識の有無が問題となってくるに違いありません。
これを「罪の意識」と呼ぶことにしましょうか。いま若い人たちを中心として、「自分が新型コロナウイルスに感染していたら、それを致命的な人に移すことになるかもしれない」という意識が広まっています。また、そういう意図で、幅広く呼びかけが行われています。だから「StayHome」です。あるいは「TogetherAtHome」とも言われています。もしかすると、自分が人を殺すことになるかもしれない、という意識、これを私は広い意味で「罪の意識」という中に含めて考えてみたいと思うのです。もちろん、聖書から言うならば、「罪」は神との関係を軸とします。神の概念なしに罪という概念はありません。しかし、もし自然神学が、つまりキリスト教的な神概念が明確でなくても、どこか本能的にでも、神なる存在を想定して議論することが許されるとすれば、「罪の意識」というふうにそれを受け止めるようにしてみたいと思うのです。
世界でもそうですが、キリスト教的基盤から来ているとは言えない日本の精神土壌においても、この「罪の意識」が感じられるように思えてなりません。しかし逆に言うと、キリスト教を信じていると口では言っており、また教会生活を普通に送っているような人の中に、この「罪の意識」が感じられないようなケースも見受けられるのも事実です。非常時には、それまで隠されていたものが露わになる、というのが、ここ近年私の経験から納得しているひとつの原理ですが、いまもまた非常時であるとするなら、隠れていたその「罪の意識の欠落」が、散見されるように感じられるというわけです。
弱い立場の人に寄り添う、などと普段言っていたようなキリスト教会やその指導者が、弱い人が見たら傷つくような記事を平気で公表する、というのも感じます。それは、自身では分からないのだろうと思います。もちろん、この私も分からないからやっているのだろうと危惧します。対話や批判(これは非難のことではなく検討というような意味です)のしづらい環境に置かれたいまの状況では、とかく自分の思いが暴走しがちです。そしてだんだんと自分は正しい、という思い込みで楽しく考えを発信する。必要な情報や心得を提供するつもりが、自分を尊大し人の心を虐げ、己れを神としていくことになることは悲しいことですが、自分もまたそうならないようにと願いつつ、恐れつつという有様です。
そういうわけで、「罪」の定義もしないままに、「罪の意識」について願うところを綴りました。故なく傷ついた人がいたらすみません。