ひとを殺す悪は誰の内にも

2020年4月20日

2001年、同時多発テロが発生。高層ビルに旅客機が突っ込み、ビルが崩壊する映像が何度も放映されました。まるで映画を見ているようだと、マスコミは当初喜んでいました。さすがにそのうちに、その拙さに気づいていきましたが、世界の人々の心には、映像として刻まれました。
 
2003年、アメリカはイラクを攻撃していました。コンピュータ制御でピンポイントに爆撃する映像が世界に放映されました。まるでテレビゲームのような印象を与えたように記憶しています。でもあれはゲームではありませんでした。人を殺す場面のリアルな映像でした。
 
遡りますが、1995年の阪神淡路大震災、オウム真理教の地下鉄サリン事件もまた、離れている人には非現実的な情景のように見えたかもしれません。せいぜい悪質なテレビドラマの展開であるかのようにも見える報道だと言われても仕方がないような、映像が出回っていました。
 
熊本の震災、中国地方を毎年のように遅う豪雨災害、関東やその他の地方も風雨による被害が酷かった年がありました。福岡の朝倉周辺も依然として痛々しい限りです。被災者の生活はなんら見通しのないままに時が過ぎているという現状もあろうかと思います。テレビ局はしばしば、画をつくるための撮影を求め、いかにも激しい被害の出ているところを競って捜して報道するとも聞きます。いまは必ずしもそうではないかもしれませんが、多少なりともその要素はあろうかと思います。
 
阪神淡路大震災によって、ボランティアという概念が強く目覚め、大切なものが何かを人間関係の中に見出していくようなことも見られました。その後の災害の復興にそのノウハウは生かされているものと期待します。先に触れた『災害の襲うとき』や『心の傷を癒すということ』のように、災害の中での精神医学も注目されました。現実の不条理の中で、人の心はどのようにダメージを受け、またどのように立ち直ろうとするのか。それをどう援助することが可能なのか。それがとくに、人と人との関係というフィールドにおいて必要であるとすると、恰も非現実のような映像として、当事者でない者が見ているのはそれを妨げるものとなるし、傍観者と化していく構造は、なんとしても避けたいものです。それでも、結局のところ当事者でなければ分からないというのも、致し方のないところです。何か適切に関係を築くことはできないものでしょうか。
 
そして今回の新型コロナウイルスによる感染拡大。中国内部での時期には、まだどこか他人事だったのではないかと思います。いまそれが、現実の病としてよりも、むしろ精神的な不安と、経済的困難との場で強く襲ってきている面が否めません。この感染力の強さと潜伏期の長さという、生き延びるための好条件を秘めたウイルスとの闘いにおいて、人と人との距離を置くことが、人と人との関係をつくる大切な要件になるという、パラドキシカルなことになっています。大切な人だから、近づけない、と。好きな人だから、距離を置く、と。
 
相手が見えない故の恐怖と、自分の行動がどうなるかという不安。それは、自覚なしにキャリアとなっていくところに、最高度の恐れを覚えます。症状が出ないから自分はかかっていないとか、罹患していても症状が出なければそれでまあいいかとか、そうした問題ではない、ということです。私が、無邪気に出歩くことで、大切な誰かを殺すことになるかもしれない、というところに、最も気を配るところですし、これが若者たちの間では常識となって、よく考えてくれている人が多いのはうれしく思います。
 
むしろ、大人の間で、その自覚が薄いことがしばしばあるのを、私は危惧します。むやみに責めるつもりはありませんが、病院関係者や警察内部で、クラスター(こんな言葉、最近まで皆使わなかった)が発生しているのは、いわばいい大人です。歓楽街関係で顰蹙を買っているのももちろん大人。やはり指摘しなければならないのが残念ですが、緊急事態宣言が出されてなお、さしたる必要性もなく街をふらふら出歩いていたり、あまつさえ三密と思しきところに行って喜んでいたりする様子をSNSで自慢げに公表する人を何人か見ています(若者がそんなおふざけをして、ずいぶん非難されていたこともありましたね)。「自称」クリスチャンであれ、クリスチャンとしての職務にある人であれ(何か特権意識でもあるかのように思い上がっているのかしら、と勘ぐります。要するにこうしたリテラシーのなさは、信仰云々とは関係がないということではあるのですが)、医療従事者を家族にもつ身としては、本当に腹立たしく思います。
 
自分の中の悪は、人を殺します。イエスは、それを聖書で教えていた、とも理解しています。いま話題の『ペスト』(カミュ)は、疫病という舞台を描きながら、背後に様々なものを伝えることに成功したのだろうと思いますが、そのうちの一つは、そしておそらく最も大切なものは、人の中に潜むペストが、人を殺すこと、それを避けたいとするカミュの切実で勇気ある決意を、そこに感じるべきではないか、と感じます。
 
いまでこそタバコの害悪が常識化してきましたが、以前はひどいものでした。まちなかで凶器を振り回し飛ばしているような歩行喫煙をすら、社会が許していたような時代でした。当然食堂やレストランでも、タバコの煙が充満して当たり前でした。健康によくない、という声が出るようになっても、吸う本人が、「おれは大丈夫」だと開き直っているのは、他人を殺しても平気だというふうにしか見えない自覚がないことを示していました。ひとは、自分の中の悪、他人を殺す悪について、あまりにも無自覚なのです。ヤコブが、舌にそのような働きを指摘したのは、怖いけれどもその通りでした。もちろん、私もそうです。こうして誰かを傷つけていることも、ありうることだという前提で綴っています。申し訳ない限りです。
 
人々が死ぬ姿を、ただ傍観して現実味を覚えないでいることが、このメディアの発達の中で、益々当たり前になっていくように思えて悲しく思います。ウイルス感染についてもまた、他人事としてしか捉えていない人が、この非常事態の地においても多々あること、しかも自分は善人だと笑みを浮かべながらそれをしていること、いったい命を何だと思っているのか、いったいどれほどの欺瞞の中にあるのか、なんとしても気づいて戴きたい。もしかしたら自分は、と省みるくらいのことはして戴きたい。
 
もちろん、私も省みたいとは思っています。傷つけることは度々ありましたから。何かしら傷つけることは、どこか仕方がない面もあるかもしれない、とは思います。それは弁明にはできませんけれども、やはり傷つけることはあることでしょう。それでも、傷つけても殺すものではないように、とは願っています。祈りつつ。



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