いま教会ができること
2020年4月16日
「巣ごもり」などという言葉が使われていますが、社会問題となっている「引きこもり」とは別の語が必要になったので、鳥についての言葉であることと、春の季語であることから、「巣ごもり」が適切と見なされたのかもしれません。但しこれ、隠語で「窃盗犯」「窃盗に入る」ことを言うのだそうですが、そこまではとやかく言わないことにしましょう。
教会も、礼拝に「集まる」ことができないとの判断をするところが多くなりました。人数や建物の規模やその構成要因の事情にもよりますから、一概に集まるのが良いとか悪いとか決めてしまうことはできないでしょう。私は、「礼拝をやめます」というような言葉を使ってはいけない、ということだけは最初から強く意見させて戴きました。あまりにも易々と「礼拝をやめます」という言葉が飛び交っていたからです。気持ちは分からないではないのです。しかし、「礼拝」は「集まること」と完全一致はしません。ふだんから、日曜日に教会に足を運べない人々、病床にあったり遠隔地であったりする人が、家で心つないで「礼拝」をしているということも多々あるわけですから、「集まる」ことができない状態でも、「礼拝」を信徒は、そして教会は、やめることはできません。やめたなら、それは教会をやめる、信仰生活をやめる、ということになるからです。
幸い教会に牧師だけが来るということは、多くの場合できるようで、しかも最新の機器というものがあります。中継ができるのです。なんだ、中継ができるならば、ふだんだって集まらなくてもいいじゃないか、などと早合点はしないでください。集まれたら集まれたに越したことはないのです。ともかく、このインターネットを利用した中継が手軽に誰でも可能になったという社会状況は、礼拝式を臨場感を以てシェアできるという、恵まれた環境を生みだすことができるのであって、非常にありがたいものです。
信徒の心を繋ぐことが、これでいくらかでもできるようになりました。それなりに連絡をとりあい、礼拝についてそれまでと同じように参加していける感覚を伴うことが可能だというのは、本当にうれしい限りです。
しかし、信徒・教会員はそれでよいとしましょう。では教会を初めて訪ねる人、求めて時折礼拝式に出席していた人は、どうなるのでしょう。その人たちのことを、考えなくてよいのでしょうか。いまのところ、礼拝中継を信徒に向けて発信することで手一杯で、そこのところまではまだあまり考慮されていないような気がします。
もちろん、このたび礼拝の中継をインターネットに流すということを始めた教会の中には、教会員内部だけの場所で公開するのでなく、誰でもアクセスできる場にこの中継動画を置くというところも出てきました。これにより、思いがけなく教会の礼拝に触れて、何かを感じる人が現れてほしい、という願いが起こされています。教会に何度か来ていた人にもお勧めすれば、教会の礼拝に幾度でも加わることができるという意味でも、好い機会となりうるものと思われます。
教会の礼拝という場に触れる。その機会がより広く開かれたらよいと思います。しかし、それだとまだ、ステップが高いような気がしないわけではありません。ただ礼拝の中継を見てもらえることもうれしいことですが、もっと何かできないでしょうか。
ここからは単なる例であり、実践するにしてはいわば無責任なアイディアに過ぎないことをご容赦ください。私は、ふだん新来会者(とりあえずこの言葉を使います)に対してするようなこと、されうるようなことを開くとよいのではないか、というコンセプトを基準に考えるのです。礼拝後、牧師が新来会者に話しかけるということがあるでしょう。どうでしたか、と尋ねることもあるし、ちょっとした相談を受けることもありえます。もちろん、ずけずけと立ち入って質問するというのがいつもよいわけではありません。礼拝の終わりがけの報告時に、新来会者の名を挙げ起立させ、あまつさえマイクを渡して何か喋れ、ということを私もずっとやっていた頃がありましたが、考えてみれば、たとえば決死の思いでこっそり教会の中に入ったつもりが、舞台に立たせられてライトを浴びて全員が見守るなどというような場に放り出すことで、これを拷問のように感じる人がいるかもしれないことは明らかです。もう二度とあんなところには行くまい、と教会そのものに背を向ける可能性もあります。そうではなくて、もっとフランクに、挨拶代わりに話をしてみる、という辺りから初めて、もし語りたがらないような人にはそれ以上近寄らない、というような接し方をして、それでも何かしらその人について理解したい、という思いが、牧師や教会員にはあってもよいかと思います。何か訊いてみたいことがあったり、話を聞いてもらえたら、ということで教会を訪ねたのであれば、それを引き出すことも大切なことであろうからです。
長くなりましたが、要するに、そうしたアクセスを、このインターネットでの関係、究極のソーシャルディスタンスの環境の中で、できないか、ということが言いたいわけです。
・牧師が、悩み相談受け付けます、とオープンにアクセスの場を示す。
・教会についての質問を募る。
・悩みが深いならば、チャット形式で慎重に相談に対して受け答えをする。
・聖書の学びをしたい人には、何らかの形で聖書の解説をする。
思いつくままにいくつか挙げてみましたが、インターネット環境で、何らかできる可能性のあることではないかと思います。こうした話ができますよ、ということをオープンにしていくことが可能ではないか、と。牧師にしても、従来のようにするべきことが多忙でスケジュールが詰まっている、という状態ではない場合が多くなりました。集会自体も減り、会議も以前のようにはできないでしょう。県外に出ることも基本的にできませんから、何かしら対応する余地がありうるのではないか、と思ったのです。
実はこれは、教会に来てほしいから、というために考えたのではありません。そもそもいま、社会不安が渦巻いています。子どものこと、仕事のこと、もちろん第一に健康のこと、その他ありとあらゆることで、誰もが真剣に物事を考える時代となっています。もはやお笑いやふざけた振る舞いを喜んでいるような余裕もなく、人生で何が大切であるのか、真摯に考える時期になっていると思うのです。語弊があるので失礼な言い方にもなりますが、国民全体が災害の被災者となっているような状態です。
教会は、経済を復興することはできません。医学的に貢献することも、言われていることを守ること以外にはまずできません。しかし、教会にできることがあります。それは、心の問題です。どうしたらこの不安から逃れることができるのか。心穏やかになる方法はあるのか。この点で、教会はきっと貢献できると思うのです。聖書の伝道というような色気はもたなくてよいでしょう。信徒の獲得などという目的を掲げる必要はありません。ただただ、人々の心の不安を治めるための提言はできるのではないか。それをできるのが教会というところではないのか。そう思います。ちょうど、ローマ教皇が、世界の国々に精神的なメッセージを送っているように、どこの教会でも、人々の心を安らかにするためのメッセージを送る、また相談に応じる、そんなことで社会貢献のようなことができないのか、と考えたのです。
ただ、それでは教会員・信徒には何もしなくてよいのか、という心配もあろうかと思います。信徒だから大丈夫、そんなことはないからです。むしろ信徒のケアのほうに最大限の努力を払うべきなのでは、とお思いかもしれません。そこは大切です。ですから、この相談ケアの企画は、信徒にこそ開かれていたいものだ、ということを付け加えておきます。日ごろ相談しているように、あるいはそれ以上に、この状況での不安や信仰生活について、コミュニケーションをとることは必要だろうと思われます。インターネットに向かう時間がこれまでより多くなっている可能性が高いわけですが、ひとりで呟いていると、どんどん過激になる傾向があります。私もいくらかその気があるように感じますが、非常時に情報発信をし続けていると、ふだんは人間関係の中で隠したり遠慮していたりすることが、表に出やすくなっていきます。ふだんならば教会で決して言わないであろうフレーズが、思わず零れている、そういう情景を目撃することが実際あります。この人は聖書や信仰が分からなくなっている、との懸念のあるような表現が(大量とは言いませんが)散見します。日曜日の礼拝が中継されるというのは大切なことですが、それも全員が見ているとは限りません。その上、信仰的な会話・交わりが途絶えて時間が経つと、いっそう危険な領域に進んでいくかもしれません。この点をやはり蔑ろにすることはできません。あんなに熱心だった人が、すっかり別人のようになってしまった、ということのないように。だからまた、信じているようでありながら、実はあんなふうに考えていたのだ、ということを弁えることも大切でありましょう。そこで、信徒ともなんらかの形で双方向に交わることができるパイプを用意すること、もしそこまで考えが及んでいなかったとしたら、早急に考えるべきことでしょう。その延長上に、一般の人との交わりもできてくるように思われるし、またそう位置づけてもよいかと思います。
これは思いつきです。具体的なことを含んでいるのでもないし、また私の考えに決定的に拙い点があるのに気づいていない、ということもあります。目に留まった方、ぜひここから何かをご検討ください。そして、この非常時のためにこそ、教会が置かれていたのだとして、その教会教会で、何か優れた働きへと導かれるようにと願っています。