命のため、憤りをお許しください

2020年4月14日

一週間ほど経っても、怒りが治まりません。私には珍しいことです。
 
福岡に緊急事態宣言が発令されて翌日のこと。SNSに、街の花の写真がアップされました。街の中を出歩いていることを知らせる写真でした。もしかすると散歩かもしれません。散歩なら散歩でそのようにコメントすればよいのですが、そうした配慮はありませんでした。
 
ひとが散歩をすることにナンクセをつけるつもりはありません。しかし、それをアップしてきれいでしょ、と公表することは、自分が街に出かけていることを宣伝することになります。
 
もちろん、顰蹙を買う可能性はあります。正直、不要不急の外出をすることは医療崩壊の可能性を増すことですから、やめて戴きたいという気持ちはあります。が、ひとの自由を自分の価値観で制限するようなこと、ましてそれでひとを裁くようなことは厳に慎みたいものだと考えています。
 
しかし、たとえば子どもたちは、頑張っています。3月から殆ど外に出られない生活を強いられています。外に出ていたら、近所の人に何をしているかと睨まれることがあるとも聞きます。在宅の方が増え、うるさいと怒鳴られることもあります。それで親が出なさんなと言わざるをえなくなりますし、子ども自身も怖い思いをします。子どもの中には、こうして遊ぶ自由が減っている子が殆どです。そのような子はこうしたSNSは確かに見ないかもしれません。しかし、中高生ならば十分見る可能性があります。そう、中高生も同じなのです。
 
ごく一部の若者が、閑散とした街の中で浮かれている画像や動画を、インスタグラムに上げていることが、非難されていました。当然だろうと思います。しかしそれを非難しているのは、しばしば若者です。そう、多くの若者は、耐えています。互いに頑張ろうと呼びかけている声をたくさん聞きます。殆どの若者は、我慢してむやみに出歩かないのです。すると彼らも、あのきれいな花の写真を自慢げにアップしたものを目にする機会があるということになります。
 
若者たちの間に広まって首肯されているツイートに、こういう内容のものがありました。「自分は若いから感染しても発症しない可能性が高いという。しかしそれで自分の親に移して親を殺すようなことがあってはいけない。」 こうして若い世代の人たちの中に、自分が感染することは大切な人を殺すことになるという意識が高まっています。それで、多くがおとなしく従っている、そして忍耐しているというふうにも考えられます。
 
街の花の写真ひとつに目くじらを立てるな、と言われるかもしれません。確かにそうです。私もまだその時には冷静でした。しかし同じ人が、この人のいつもの趣味ではあるのですが、今度は食レポを始めたのです。博多駅近くの食堂でした。これまでと同じように、料理を何枚も写し、うまいと喜んでいるだけです。
 
食堂も経営が大変です。働きに出ると、ランチも必要でしょう。どうぞお召し上がり下さい。しかし、それ、アップする記事でしょうか。これを見た人が、巣ごもりを余儀なくされている人が見る場所に、貼る記事でしょうか。見た人がどんな気持ちになるか、想像力がないのでしょうか。
 
医療従事者の中には、実際限界まできている人も多々います。そういう人もなんとか訴えようとつぶやいているものがありました。「この状況で指示に従わないで自分勝手な人が感染しても自分は危険を冒してケアしなければならない。そんなことはしたくない。そして、その分、他の病気で病院にかかりたい患者さんたちを病院から追い出して、殺してしまうことになるのだ。」というような内容でした。無責任な行動をしてくれるな、という正に「必死の」叫びです。
 
外出するのは仕事だからいいじゃないか、という事情はあるかもしれません。危険を冒してでも食事のために店に入るのだ。それはそれで構いません。でも、わざわざ楽しそうに公表することでしょうか。
 
さらに言いましょう。その人は、牧師です。つまり、街なかをうろうろする不要不急の用事がどこまであるのか知れず、まして食堂に決死の覚悟で入らなければならない事情はないだろろうと思われる立場です。そしてその場所は、自宅とも教会とも全然違う場所です。
 
この人は、聖書をどんな気持ちで語っているのでしょうか。聞いた人がどんな気持ちでそのメッセージを聞くか、考えない人だと思います。人の心にどう響くのかということについて、関心はなさそうです。これまでも、どこそこの教会で説教をしたとか、新聞に投書が載り各地の新聞全部を制覇したとか、そして昼に何を食べたとか、それらを日々嬉しそうにレポートしていましたが、緊急事態宣言になっても、何の変化も気遣いも見られません。平常心であることは認めますが。
 
聖書を語るからには、愛することはお語りになるのだろうと思います。いったいこの街なかレポートは、人を愛していることになるのでしょうか。弱い人の気持ちに近づく視点が、どこにあるのでしょうか。逆に子どもたちの心を、医療従事者の必死の叫びを、踏みにじり虐げるようなことになってはいないでしょうか。自分はいつもと変わらない普通の生活を送れているんですよ、と自慢しているように見えるという可能性が、ちらりとでも脳裏を掠めなかったの、とても残念です。
 
もしいくらかの想像力があるならば、いったい、いまの非常事態で、職を奪われたり、無給や減給になった人がどれほどいるのか、気づくのではないかとも思います。会社経営が立ちゆかず、倒産なども次々と起こっていますし、ついに百貨店やモール関係も閉鎖です。豪華なランチを楽しめるほどにお金に困っていない自分を示すことが、我慢と苦難を強いられているという人の目に、どのように映るか、心に浮かばなかったのでしょうか。世間では懸命に、頑張りましょう、とお互い頑張っている声が飛んでいます。その多くは、クリスチャンではありません。しかしそうした人々のほうが、よほど愛に満ちているように見えるのは、私の錯覚であり偏見なのでしょうか。
 
実はまた、別の人が、同じ緊急事態宣言が出て、切迫した報道が続いている週末に、いわゆる「三密」そのものであると思しき小さな会場で音楽を伴う夜の催しに行ってエンジョイしています、というレポートを嬉しそうに上げていたのも見ました。この人もクリスチャンと自称しています。しかし、他の神々も信じているような発言も繰り返しているので、果たしてどうなのだかよく分かりません。毎日街なか各地を出歩いているレポートが、たとえ散歩の範疇であったにしても、まるで世間をせせら笑うように続いているようで、その態度に対しては、あまりに唖然とし、怒りを禁じ得ませんでした。
 
わが家は、医療従事者と無給者と、出校停止の学生から成り立っています。それぞれの実家には高齢の親がいます。他の子も緊急事態宣言の最中にいます。そしてこの子も、多忙なスケジュールの中から、実は久しぶりに会う予定を、この春休みに立ててくれていたのですが、ずいぶん悩んだ末に、自分たちが親に持ち運んではいけないと取りやめにしました。思いやりのある決断だったと思います。家にいる子も、一時休校が解除されることになっていたときに、友だちと集まろうと楽しみにしていたのですが、事態が悪化したことで、よろしくないのではないか、と私たちが考えさせたら、泣きながら諦めました。そしてその後も、殆ど友だちと会えない生活を続けています。そしてまだこれから四週間ほども、それが強いられるのです。その先の保証もないままに。
 
子どもも、大人も、当然高齢者も、頑張っているのです。よくぞというくらい、忍耐しているのです。よく頑張っていると思います。そして最前線の医療従事者の皆さん、日々恐怖と戦っています。マスクは午前・午後で使い分けるのが常識の現場で、祈るようにしながら二日間同じものを使わなければならない現場の恐怖、想像できますか。彼らは命懸けの使命感をもってこれ以上は無理というほどに頑張っています。もはや「頑張ってください」の言葉も空しく聞こえるほどの限界状況の中にあるのです。
 
その方々に、検査を受けさせない病院はけしからん、と威圧する発言も多く見られます。それも、キリスト教の世界では有名な方々にも見られます。そうした方の中には、「罹患しているかどうかの見分け方」という安易な方法を信じて、拡散している人もいます。これは逆に、その見分け方でひっかかった人が(それは別の疾患傾向がある人はそのチェックに普通に引っかかる可能性が高いものです)病院に迫る可能性を秘めています。病院は、新型コロナウイルス感染症の人だけのものではありません。すでに多くの疾患で重い状態の人もたくさんいます。家で安静にしていれば多くは治まる可能性のあるケース、あるいは感染すらしていない人が不安から病院に殺到するようなことになったら、どういうことになるか、少しの想像力があれば誰でもお分かりだと思います。もちろんかの「見分け方」は、普通に考えればそんなことは嘘だとしか思えないようなほどの安易なものなのですが、それを拡散することで、医療崩壊へ加担するようなことはして戴きたくありません。その拡散記事に私はたまらず制止を求めて書き込みましたが、完全に無視されており、さらにその拡散記事をシェアした別の牧師に対して「いいね」を送るなどしています。ラジオ放送では極めて心ある言葉を並べている人ですが、いくら不安でたまらない状態であるとはいえ、本当はどういう人であるのか、分かってしまったと思いました。先日ラジオ対談で、神学者である小原克博さんが、こんなことを言っていました。「信仰は常時に養い、非常時にものをいう」、これは私が近年強く感じて、こうした場で繰り返し述べていたことですが、全くその通りだと思います。
 
命懸けの人々をせせら笑うように見える記事を、拡散しないでください。載せないでください。また、踏みにじるような行為を、しないでください。軽率な行動を繰り返して感染症の患者となったら、別の助かる命を失うことにもなりかねません。いい大人であるキリスト者が、たとえ自称だけのクリスチャンであったとしても、なさらないでください。お願いします。そして、自ら市民の一人として、基本に従って生活をして戴きたい。素人の判断で医学や政治を支配できるような考えをどうぞ抑えて。



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