【聖書の基本】復活
2020年4月12日
なお、新約聖書の原典のギリシア語には、復活を表現する二種類の言葉がある。一つは「起こす・目覚めさせる」を意味する言葉の動詞形「エゲイロー」、もう一つは「立ち上がる・起き上がる」の名詞形「アナスタシス」であるが、どちらの言葉も文脈依存的に復活を含意するのであり、もともと復活だけを指しているわけではない。これらの単語は文脈上復活を指していることが明らかな場合に「よみがえった」または「よみがえり」と邦訳されている。他方で、復活それ自体を指しているわけではなく、復活したイエスの目撃に関わる表現として、「出現」または「現れた」と邦訳される「オーフセー」という言葉がある。これが聖書におけるイエスの復活顕現についての最古の証言とされる。(「イエスの復活とカトリック教育」加藤美紀 )
新約聖書での「復活」についての語の用いられ方の簡潔な説明があったので、引用させて戴きました。
I was surprised. を日本語にすると「私は驚いた」ですが、英語では受動態です。私が主体的に急に驚くというのは、考えてみれば気持ちの悪いことかもしれません。「驚く」というのは、自分の意図しない何かが現れて、それによって「驚かされる」状況だというような意味で、受動態であるのは、ひとつの理に適っていると言えるでしょう。
イエスが自分から「復活した」のだというような情景を、どうやら聖書は描いてはいないようです。「復活されられた」「よみがえらされた」「目覚めさせられた」というふうな表現がとられるのが基本で、その時隠れた主語は、「(父なる)神」だということになると思います。神的受動態などといって、新約聖書でただの受動態が書かれてあるときには、神が主体であるという場合があるという説明もなされていますが、この復活もまさに、それでしかないでしょう。
イエスはゾンビのようによみがえったのではなく、神がよみがえらせるということを信頼していた、という見方もできると思われます。それでも、ゲッセマネでの祈りのように、苦しまれました。また、十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」とお叫びになったのでした。
ありがちですが、自分の思い描いたとおりに、神を動かすというのはおかしなことです。神よどうして私が思い描いたようにならないのですか、との問いは、的が外れていると考えられます。神を信じる、信仰する、というのは、神を信頼する、という基盤をもつ意味でありましょう。それは、神が私たちを信頼している、ということが先立っている故である、と聖書は告げているようにも思えます。
いまはそんなふうに、私たち自身の立つところ、見える景色と見る方向を、顧みる機会となりうるのではないかと思うのです。