いまだから、十字架
2020年4月8日
受難週です。受難週であることすら忘れたかのような、うろたえた姿が見え隠れするような気もします。見えないものを見る信仰者が、見えない敵にいいようにあしらわれているようにも見えます。
日常的なルーチンワークは、いつもと同じようにしていればよいことが多く、波風を立てないで流れに沿って発言したり行動したりしていれば、誰も何もひっかかりをもちません。けれども、非日常的な場面が発生すると、それまでおとなしく隠していた本性が露わになることがあります。ハンドルを握ると別人、というのと似ていますが、もっとはっきりと出てくることが多いかもしれません。この人、こんな人だったんだ、と驚かされるわけです。
そんなとき、日ごろ口にしている「基本」に従うというのが、ひとつの無難な道ではないでしょうか。教会がすっかり浮き足だって、急にどこぞの評論家のようになり、右往左往するようなものの言い方をするのではなく、教会は、いまここでこそ、ふだん言っていることを発信しましょう。聖書のことばを神のことばとして、そして命のことばとして、発信しましょう。世の愉しみがいっぱいの日常においては耳を傾けようともしなかった人々が、真面目に聞いてくれる時かもしれません。
十字架の主を見上げましょう。ただそこに愛がある。
どんなに痛かったことでしょう。どんなに苦しく、孤独だったことでしょう。キリスト者は、そのキリストと出会ったはずです。あれは昔のことですか。十字架は過去のことでしょうか。いまこのときも、私は主の手に釘を打ち付けている張本人だという意識が消えません。もしそのようにお感じになる方がいらしたら、受難週に思うその信仰を、十字架のことばを、自分自身を通して命となっていくものとして、表していきませんか。