手洗いとマスクなど衛生教育の必要な場面

2020年4月1日

春期講習が終わる。始まるころには、不安もありました。子どもたちはどんな顔を見せてくれることだろうか。それが、思いのほか元気だったので、安心しました。むしろ学校が休みになり、友だちと会えない、あるいは会いづらい生活が続いた中で、塾であろうとも、友だちと会えるというのは、本来の子どもらしい世界へと解放する何かがあったのかもしれません。もちろん、勉強という世界でないところに、子どもの世界は広がっているには違いないのですが。
 
でも、油断はいけません。大人たちもすでに「コロナ疲れ」なるものに襲われていたようでもありましたが、それが「緩み」となったとも言われる中、大都市圏では外出自粛要請(おかしな言葉です)が出され、都市封鎖さえあり得るという状況になってきました。こうなるとますます経済はぐちゃぐちゃになってきて、もう先行き成り立たないという状況の人もたくさんいると思われます。そんな中で、衛生への注意が散漫になると、そして、いろいろ言わせているがこれは構わないじゃないか、というように緩んでいくことで、元の木阿弥になる、いやそれ以上のことになる、という可能性もあるからです。新型コロナウイルスについてはいろいろな観点から考えなければなりませんが、今回は、手洗いとマスクに絞った提言を考えてみます。
 
衛生教育は、小学校ではけっこうなされています。手洗いの歌を習っている子もいます。歌に合わせてその通りに洗えば、一定の時間、洗うべきところを全部網羅して洗えるという、なかなか優れた歌です。毎年のインフルエンザや、他のウイルス感染もずいぶん防ぐことができるのではないでしょうか。でも、丁寧に手を洗っている子ばかりかというと、そんなことはありません。注意を喚起すると、そうだ、と気づいて素直に従うのが、子どもたちのよいところでもあるのですが。
 
いえ、子どもの問題ではありません。大人は、手洗いは大切です、と口では言いますが、手洗いの仕方が、私の見る限り、ちっとも分かっていません。女子トイレでも、ちゃっちゃっと洗っていくだけの人が多いのだと、妻が漏らしていました。男子トイレだともっと悲惨です。こんな騒ぎの中でも、トイレから手を洗わずに出て行く年配の男性が如何に多いことか。その手で駅のエレベータの手すりをもっていますし、中にはそのまま女性と握手したり肩に手を置いたりしているケースもあるんだろうなと案じます。陰湿な、相手に分からないハラスメント、多いと思います。
 
それにしても、大人の手の洗い方ですが、テレビで、家族ですら面会禁止の老人福祉施設にレポーターが入り込むとき、アルコール消毒をしてもらいます、ということで画面にそれが映ったのですが、指の間を洗ったまではよかったけれども、長い爪にはアルコールはちっとも触れていないまま入って行ったのには呆れました。いや、それはまだいい方でした。NHKの朝の人気レポーターは、指には触れず、掌だけをちゃちゃっと擦り合わせて終わりでした。消毒ってああするんだ、と全国に見せつけたことになります。しかし私の知る限り、そのことにツイート上ではクレームは私のほかにはありませんでした。手の洗い方・消毒の仕方になど、誰も関心をもっていないか、または結局、洗い方・消毒の仕方を知らないかのどちらかだと思われます。口先では「手洗い」と言うが、実はその中身を知らないし、実行もしていないというあたりが大筋ではないか、と予想されます。
 
私も、医療従事者の妻に叱られたことがあります。マスクを顎にかけておくのはダメだ、と。確かにそうです。考えたら分かります。顎に付着したウイルスなり雑菌なりを、わざわざマスクの内側に付けているのですから。反省しきりです。そもそもマスクはウイルスの予防にはほぼ無力です。咳をする側がマスクをかけるのは、飛沫の範囲を減らす可能性はあるわけですが、それでもウイルスは殆ど素通りてはないかと言われています。まして防御する側は、気休め程度といわれても仕方がないかもしれません。だのに、そのためにマスクを買い漁り、不足に苛々しているというのも、考えものだなという気がします。もちろん、しないよりはしたほうがいいのは確かなのでしょうけれども、このあたりは検証も難しいと思われます。
 
もちろん、医療現場ではそれでも危険の度合いが違いますから、マスクなしというのはあまりに気の毒です。ウイルスなり細菌なりをもつ人が集まる場所です。ともかくも何かあればリスクはいくらかでも低くなります。たんに新型コロナウイルスを防ぐためなどを考えているのではないのです。不謹慎な言い方をしますが、新型コロナウイルスに遭遇するのは、宝くじに当たるより難しいくらいの確率であったことがありました(だから油断してはならないことは当然と考えます)。それに比べると、病院や医療機関というのは、何かしらの病気の原因が溜まっているような具合で、状況が全く違います。新型コロナウイルスだけが病気ではないのです。ほかに、花粉症の方には、マスクは必要なのでしょう。花粉であれば、性能のよいマスクはかなり防御できるようになっていますし、通常のものでもだいぶ改善できるのではないかと思われます。
 
マスクにも明らかな効用はあります。雑菌の付いた手を、口にもっていく道を遮断します。人間、しょっちゅう顔を触っているものです。そして手にはありとありゆる雑菌が付着します。ドアノブなどは雑菌の宝庫で、便器よりもよほど多く付着しているといいます。便器に手はめったに触れませんが、ノブには誰しもが触れます。そう思うと、それは当然のことと言えるでしょう。ですから、その手を顔に、とくに口に持っていくというのは、様々なリスクを高めることになります。マスクがあることで、これをいくらか減らすことはできるでしょう。
 
しかし、ちょっとした傷口には、絆創膏で覆うよりも、何も付けずに風通しよくしておいたほうが傷が治りやすいということが多々あります。マスクも、いっそのことしないほうがよほど清潔なのです。というのは、口の菌がマスクの内側に付着します。一度外してまた付けると、また外からよけいにマスクに付着していることになります。温く湿気のある環境で、菌がさらに増殖しているかもしれないのです。
 
私もマスクについては褒められたものではありません。花粉症でもないので、毎冬は口乾燥を防ぐためにつけていたようなものであったし、予防という意識は大してなかったとも言えます。いまも職務上付けろということになっていますので、従っていますが、それは相手に対して当然の配慮から、という理解も必要だと考えています。私が菌をもたないという保証はどこにもないわけで、あくまでもその前提で動いていくことが大切である、と。
 
子どもたちにも、適切な衛生の知識は話すことがあります。教室には、このたび公にアピールされた、手洗いの仕方の載ったポスターが何枚も貼られています。そう、そこには医療従事者にとり常識的な手の洗い方がちゃんと書かれています。しかし、教室で中学生にどんなふうに洗うか尋ねても、「きちんと」理解している生徒はいませんでした。ハンカチひとつ携帯しない子どもたちです。そんな時に、便器より汚いノブの話や、マスクの雑菌の話、ペットボトルの飲み口に菌が繁殖していく話などをすると、ちょっと教室が静まります。いやな先生になっちまってます。
 
テレビでは、今日も素人がわいわいと新型コロナウイルスについて世間話をしています。今どきテレビを全面信用している人などいないかもしれませんが、それでも影響は大です。無知な者が思い込みや信念で喋っていることが無責任に伝播します。専門家を呼んでいるから大丈夫ということもありません。局に都合のよい専門家であったり、またその専門家とやらがどれほどに現場を知っているか分からないケースもあるでしょう。ましてその場の雰囲気で話をするような芸能人めいたコメンテーターの発言が、どれほど正しい知識を妨害しているかは計り知れません。誰それが言っていた、みんなが言っている、それがいかに人の心をなびかせていくか、メディアを通して集団心理を操っているようなものです。自分ひとりの考えでは動けなくても、テレビ画面の中での「みんな」がそう思えば、そうかな、と信じてしまうのです。また、誰かが言っていたとおりに考えれば、自分に責任が生じないという安心感もあろうかと思います。人の心を一斉に動かしていくのは、簡単な出来事なのです。その点、東京が危機的な状況になってようやくのこと、スタジオでも距離をとって人が立つあるいは座るという状況が始まりました。悪いことではありませんが、これまでテレビ画面が、「大丈夫そうやん」という雰囲気を拡散してきたことに、責任を覚えるような様子は見られません。テレビが、無意味な恐怖と、間違った手洗いと、実は恐れる必要がないんじゃないかというようなあり方を、教え広めてきたという点に、無反省でいてはならないと考えます。
 
先ほどの消毒の無様さもそうですが、口先で「手洗い」などと言っても、何も分かっていません。無責任で現場を知らない人々がテレビで一日中わいわいやるのを流すようなのは、百害あって一利なしですから、「公共広告機構」が震災のときに一日中流していたように、手洗いの映像を一日中流したらどうでしょうか。テレビ局も、この経済の煽りを受けるはずです。スポンサーの力がなくなっていくことが懸念されますから、このままではテレビ局が破綻するかもしれません。画面でわいわいやっているメンバーにも危機が及んでいることが、まだお分かりではないかのようです。人々に信頼される放送をすることでまた立ち直れるかもしれませんから、この難局に正しい知識をもたらすスポット広告を流しませんか。まず正しい「手洗い」の仕方を流しまくることから始めるのです。それから具体的に危険な実例を映像で見せつけることを繰り返す。いまこそ教育が必要な場面なのです。教育心理学の先生方、発言してください。



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