【メッセージ】真理とは何か
2020年3月29日
(ヨハネ18:28-38)
「真理とは何か。」(ヨハネ18:38)
逮捕されたイエスは、ヨハネによる福音書によると、大祭司カイアファのしゅうとであったアンナスの許に連行され、続いてカイアファへと送られます。隠れてそれについていくペトロが、三度イエスを知らないと言うシーンもここに描かれています。カイアファの許でどんな尋問があったかは記されず、いよいよローマ総督のピラトへと引き回されてきました。今日開かれた聖書は、ここから始まります。
すでに明け方となっていました。その日が昇り、沈むときから安息日が始まります。イエスの裁判は迅速に行われなければなりません。なんとかイエスを亡き者にしようと企むユダヤ人たちは、手早くイエスの死刑を決めてもらいたいと考えています。それで、このイエスが連れ回されるままについて動いていきます。ただ、総督官邸には足を踏み入れないようにしていました。ローマから配置された支配者ではありますが、ユダヤ人から見れば外人であるピラトの領地に入ることは、一種の汚れと見なされうるものでした。律法によると、そういう汚れを受けた者は、この後の過越祭に参加することができないと考えられていたために、ピラトの家に入ることはできなかったというのです。
総督ピラト。あるいは「総督」という名でよいのかどうか、などといった議論もありますが、それは神学者や歴史研究家の皆さまにお任せしましょう。ともかくユダヤの地を治めるためにローマ帝国から派遣された指導者です。ユダヤ地方は、ローマ帝国の属州という扱いで、ユダヤ人たちの自由は制限されていました。とはいえ、その宗教行為を否定されるということはなく、比較的穏やかに支配を受けていたものと思われます。ローマ帝国が広い地域で支配力を得たのも、力で抑えつけるのではなく、ある程度の自由を与えることで、好意的に支配を受けられるようにしている面があったそうですが、ユダヤは交通の要地でもあり、またその宗教伝統が強い地域でしたので、ローマの手先とも言える傀儡罫線であったものの、ヘロデ王などに任せる治め方をしていたようです。が、このピラト本人についてはあまりよく分かっておらず、おもにキリスト教側の証言によって、イエスを十字架につける決定的な役割を果たしたことが前面に立ってしまったために、使徒信条において各教会で毎回のように、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と悪名を轟かせるようなことになってしまった一面があろうかと思います。
ピラトとしては、騒動を起こすことが一番拙いことでした。想像してみてください。あなたが校長として、問題の多い学校に派遣されます。そこで何を心がけるでしょうか。そこから有名学校への進学者をたくさん出すことでしょうか。いえ、きっと、「どうか問題を起こさないように」ではないでしょうか。ピラトも、何かと曰く付きのユダヤ地方に派遣されたとなると、そこで目立つ不始末を起こさないようにとまず考えたものと思われます。ユダヤの歴史をライブで証言したヨセフスが言うには、皇帝の軍旗を掲げていたときユダヤ人の願いに応じて引っ込めるようなこともしていると言います。事を荒立てないように、とピラトはこのイエスについての騒動を、厄介なことが起こったものだと考えたことが推測できます。
ローマは、法律については非常に優れた制度を整えていました。そのローマ法という概念は、現代の私たちも踏襲していると言われます。罪がない者を罰するということは、理に適わないのです。それでピラトは、近寄って来ないユダヤ人たちが官邸の外でざわざわしているところへ、自ら近づいていくより他なかったのですが、ユダヤ人が躍起になって訴えて連れてきたこの弱々しいイエスという人物について、いったい何の罪状か、と問い質します。ユダヤ人は、悪いことをしているから当たり前だ、と口走りますが、これでは理屈になりません。ピラトは、面倒に巻き込まれたくないと思ったのか、どうやらこれはユダヤ人内部の問題だから自分が関与するのは自分にとり得策ではない、と判断したのでしょう、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と命じました。しかしユダヤ人たちは、このイエスを死刑にしてほしいのだ、という意志を表明します。つまり、属州ユダヤにおいては、ユダヤの裁判だけで人を死刑に処すことが許されなかったのです。死刑判決と執行はローマ帝国の権限である手前、ユダヤ人たちは重大な犯罪を判断する立場にはありませんでした。ピラトは、拙いことになったと思ったに違いありません。
仕方なく官邸に戻ります。そしてイエスに尋問します。ピラトはまずイエスに「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねます。イエスは、「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」と答えます。なんとも不思議な問答です。殆ど対話になっていません。そこから質問は横道に逸れます。イエスは「国」の話を持ち出します。これは次のピラトの質問を呼ぶためでした。次の、というよりはここでの最初の質問、この個所で必ず押さえておかねばならない質問でした。「それでは、やはり(ユダヤ人の)王なのか」と、いわば同じ質問です。するとまた先ほどと同じように、しかし今度は「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」と言い、「真理」の問題が出て来ます。そこでピラトが「真理とは何か」と尋ね、対話が途切れます。イエスは何も答えませんでした。答えられなかったのでしょうか。そんなはずはありません。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と、つい先ほど、弟子たちには言ったのです。でもイエスは黙ったまま、話はぷつんとここで終わりました。そして、この後はただひたすら十字架への道が始まっていくのです。この「真理とは何か」という問いが、ぷつっと切れて答えられないままになっているというところが、とても気になります。
ギリシア語は、肯定文と疑問文においては、曖昧な部分をもっています。英語のように語順で決定もできないし、疑問符のような記号も、注釈上入れますが、基本的にありません。果たしてここでのピラトの言葉が質問であったのかどうか、そうでないとして読む道はあるかと思います。ただ、「真理とは何か」は、「何」という語があるので、疑問文として読んで然るべきかと思います。
「あなたこそ(強調)ユダヤ人の王なのである」
「自分自身から、あなたがこれ(私がユダヤ人の王であること)を言う(現在)のですね。あるいは、誰か他人があなたに言った(アオリスト)のですか。わたしに関して」
おや、これは少し味が出てきました。リアリティがありませんか。
「では、王である(現在)のだ、あなたは(強調)」
「あなたが言う(現在)んですね。わたしが王であるのだ、と」
これではまるで、ピラトの信仰告白の場となっているかのようにさえ見えます。それはおかしい。ピラトがイエスを信じたわけではないのですから。そして最後に「真理とは何か」とぶつ切りの質問で終わっているのです。
何か気づいた方がいらっしゃるだろうと思います。お分かりになりましたか。あなたはピラトとして、イエスの前にいるのです。
最後は「真理とは何か」と、自分に問いかけているのです。そしてその答えを、自分で出さないといけなくなっています。
キリストを信じる者は、「それはイエスです」と答えるでしょう。その言葉は、福音書の中で出してしまうわけにはゆきません。読者が、この福音書を聞いた人が、問われていて、その人が神と向き合って、答えなければならない構成になっています。
しかし、いわば形だけ、口先だけ、イエスは王です、と言うことはできます。信じているつもりでも、あまりその気がないのに、イエスは王です、主です、と口にすることはできます。その時イエスは確認します。
「自分自身から、あなたがこれ(私がユダヤ人の王であること)を言う(現在)のですね。あるいは、誰か他人があなたに言った(アオリスト)のですか。わたしに関して」
人が言っていたから、それをなんとなく自分も言ってみている、というわけではなく、本当に自分自身から、そう言っているのですね、と確認しています。そしてもう一度念を押しています。
「あなたが言う(現在)んですね。わたしが王であるのだ、と」
信仰告白のための確認ができたら、イエスを前にして、自分で自分に問うてみましょう。「真理とは何か」と。