【聖書の基本】教会
2020年3月29日
誰もが知っていると思い込んでいること。それを問いかけ、実は知っているつもりでいたことを、何も分かっていないという自分と向き合わせる対話を生みだす。その営みの中で、ソクラテスは「知らないということを自覚している」点で、哲学(知を愛する)の原点だと見なされるようになりました。
当たり前のように私たちが口にする「教会」。では「教会」とは何?
新約聖書の中で盛んに登場する「教会」という訳語。検索すると、86節にわたり登場します。福音書ではマタイに2節(16:18,18:17)あるのみ。使徒言行録には多く登場して16節、しかし目立つのは第一コリントの22節。ほかにはエフェソ書に11節あるのが目につきます。もちろん黙示録には七つの教会が登場するので多いかと思いきや、10節に留まりますから、この七つの教会への言及で尽くされています。
ギリシア語で「教会」を表すのは、「エクレーシアー」です。「呼び出される」という意味合いからできていると見られます。このあたりについて、『新約聖書のギリシア語』(バークレー・日本キリスト教団出版局)の説明を辿るような形で学んでみましょう。
「エクレシア」(以後長音なしに示す)は、ギリシア文化の背景から捉えると、古代アテネの集会、民主政治の基盤を表しました。この語はローマ人も、このままの音で(つまり日本語で言えば和語に訳さずカタカナ英語を使うように)理解していたようです。この語のギリシア語的背景から見ると、「エクレシア」は神が信じる者を呼び集めた集会を意味することになります。
「エクレシア」はヘブライ語の背景ももっています。七十人訳では、ヘブライ語の「カーハール」を「エクレシア」と訳していることが分かります。意味合いは、やはり「呼び集める」に違いありません。旧約聖書では「集会」とか「会衆」とかいう訳語になっているのではないかと思われます。イスラエルという神の民と同一視できるでしょうか。このとき、呼び集められて一つのようになった集団がイメージされるかもしれません。
但し、それは少数のエリートが集められたという性質のものではありませんでした。誰もが同じように神により呼び集められたことになります。しかしギリシアの民主政治のように、自分の意見を言うためではなく、神の声を聞くために集まってきたと言えるでしょう。
新約聖書において「エクレシア」は、何か普遍的な広いものを指していると思われることがあり、また、パウロが各地域に起こした信徒たちの集まりである場合もあります。礼拝のために集まった姿をそう呼んでいるように見えることもあります。パウロは、時に信ずる者誰もがその一部であるような、大きな教会を頭に置いているようにも思われます。
そうなると、その小さな団体の一員であるということが重要なのではなく、大きなつながりの中に属しているという自覚が望ましいことになります。少なくとも、建物のことを「教会」と理解している様子は全く見られません。その点、私たち日本語での常識では「教会」は完全に建物です。しかし、「教会とは建物のことではない」という点だけは、まず私たちが根底に置いておくべき理解でありましょう。
また「エクレシア」は、神のものだというように考えられているようです。だから「神の教会」というフレーズも見られます。神に属するもの。神から注がれる神の愛をもたないことはありえないでしょう。
それから、「エクレシア」は「キリストの教会」という捉え方もされています。キリストが教会の頭であるというエフェソ書の書き方と、教会はキリストの体であるというコロサイ書の言い方とが気になります。そのイメージはいま確定できませんが、いずれにしても、かつて主なる神が創造や民を導く業によって、神の計画を出来事として実現させていったことや、イエス・キリストが癒しや奇蹟の業で神の心を現実の出来事にしていったのに比較される形で、聖霊により助けられた教会が、神の支配の中で、神の計画を実現するための働きを担って実行していかなくてはならないことになるでしょう。
また、「家の教会」という言い方もありました。やはり聖書執筆当時、建物としての教会は考えられなかったのでしょう。誰かの家を会場として、しばしばひっそりと集まって神を礼拝するとき、そこは常に「エクレシア」でありました。そして一家が神を皆信じているという状況においては、その家庭はそれだけで、「エクレシア」として成り立っていたと言ってよいのかもしれないと思います。
それにしても、「教会」という訳語、これは「愛」や「神」のように、この訳語でよいのかどうか、常に問われている曰く付きの語であることは確かです。中国語の聖書の訳をそのまま使ったという事情があるようですが、どうして中国語が「教会」としたのかはよく分かりません。しかし中国語で「手紙」が指しているものがちり紙であるのに対して私たち日本語ではレターを想定するように、私たちが抱くイメージというものは、元の語と同じかどうかは分かりません。私たちは「教える」と呼んでしまいます。なんだか偉そうに上から教えるという場所のように、きっと一般には受け取られてしまっています。「教え」というのも高尚な知恵でしょうし、さらに「説教」とくると、これはもうアウトです。お説教をくらうとしか感じられず、そこから敬遠されている空気が漂っていることは間違いないでしょう。
ヘボン訳聖書の1873年のマタイ伝では「集会」「公会」となっていたのですが、188年の明治元訳では「教会」となってしまいました。その後は、そこは「教える会」となり、出席する者が「学ぶ会」となっていった傾向を否定することはできません。そこで、「エクレシア」が「集会」であるという意味を重視して、自らを「キリスト集会」と呼んでいるグループがあります。彼らは「ブレザレン」という名でも呼ばれています。
建物や組織ではなく、その本質は、呼び出された者たちの集まりであること、そこに「エクレシア」を捉えることで、新たなものが見えないでしょうか。思いやりと励ましとをやりとりできる場としての、人のつながりがそこにあります。神と人との関係とによって支えられた者たちの、人と人との関係が豊かにあるところは、どこかもう、いまここで神の国を実現していると言ってはいけないでしょうか。人の意志で集まったのではありません。神に呼ばれたのです。そして、神と出会ったのでもあり、必ずや神と出会う仲間であるはずなのです。