職業としての○○
2020年3月29日
職業としての、とくると○○には「学問」か「政治」を入れたくなる人がいるでしよう。マックス・ヴェーバーの講演です。「小説家」とくると、村上春樹。その他、いろいろな職業名が入る本が出回っているようです。もちろん、「職業としての教師」という本もありました。
ビジネスライクであることが、悪いはずはありません。「ブラック・ジャック」では、勤務時間が終われば患者のことにまるで気を払わないアメリカ人の医師を描いたシーンがありました。ブラック・ジャックは一匹狼で医師免許なしの医師として、とてもじゃないけれども職業としての医師の立場ではありませんでした。連載当初は「恐怖コミックス」であったのが、そのうち「ヒューマンコミックス」に変わっていったように、途中からはっきりした方針を見出していったことで、手塚治虫の代表作のひとつとなりました。人により意見は異なるかもしれませんが、日本人だと、勤務時間外でも、医師は医師であり、ナースはナースであるようなイメージがあるのではないかと思います。
教師にしても、たとえば松下村塾の吉田松陰がビジネスライクに教えていたというふうには想像しがたいし、大村はまという人が少し前まで、国語教師として尊敬を集めていたことを思い起こします。やっぱり熱く子どもたちの教育について論じ、実践していたのではないでしょうか。金八先生をはじめ、テレビドラマに描かれる教師も、教室を離れてもなお「先生」として子どものために奔走するものばかりでした。そういう期待が一般にもあるものと思われますが、その期待が、教師たちを超過労に追い込んでいることは、よくよく考えなければなりません。
『職業としての政治』を私はまだ読んでいないのですが、学生たちに話したものを元にしたその思想は、職業としてほどよくやれというものではなくて、情熱・責任感・判断力を要する有能な学生が、第一次大戦で敗れ大混乱に陥ったドイツを導いてもらいたい願いがこめられていたのではないかという気がします。
「政治家(Statesman)」は望ましい。しかし、私利私欲とそのための票集めにばかり関心のある「政治屋(Politician)」もいることが、よく比較されます。もちろん、政治屋としての観点も必要な場合がありますし、折衝においても権謀術数なしで困るのは確かですから、「政治屋」は不要だと言っているわけではありません。政治の世界のみならず、様々な職業について、このような比較は可能であるかもしれません。ヴェーパーのいう「職業」はドイツ語の「Beruf」ですから、英語で言えば「Calling」の感覚で、呼び出されたこと、神による召命まで含みうる語です。それはとても「政治屋」の範囲で留まってよいものではないのだと言っているように感じます。
高校生の息子は、若いけれども信頼のおける古典の教師と出会い、進級するときに、先生に感謝の言葉を送っていました。古典が好きになったのは先生のお陰であり、楽しかったし、先生と出会えたから、勉強全般も好きになれた、というような内容だったと思います。よい出会いがありましたが、今後担当ではなくなったとしても、この先生はずっと彼にとって先生であり続けるのだろうと思います。
ふだんあまり聞かない牧師の説教を聞いた後のことでした。私は、説教の感想を彼に訊きました。すると、「言っていることはよいことだと思うし、よくまとまっていたから、そうですね、という感じだけれど、言ってしまえば、ただそれだけ。それで終わり、という感じだった」と答えました。驚きました。それは全く適切な感想だと思ったからです。一方的にただ説明をする教師の授業を受けただけの生徒の気持ちは、その時の状況をたいへんよく説明していると思いました。
今度は、ふだん聞いている牧師の説教はどうか、と私も対比させて彼に考えてもらいました。「いつもは、或る聖書の言葉が示されて、それを頼りに一週間前向きに歩いていける、そうした希望をもらう気がする。自分に関わってきて影響を与えるメッセージがある」と彼は言いました。これも正に、その通りだと思いました。
私は、「牧師」という職業をしている人だから、とりあえず間違ったことは言っていないけれども、ただそれだけ、という話をするものではないか、と夫婦で語り合っていた内容を彼に伝えました。すると少し考えて、普段の牧師について、「あの人は、(こんなことがあるかどうかは分からないけど)牧師という職業を辞めたとしても、自分にとってあの人は牧師だと思う。牧師というもののイメージとあの人とは一体となって、切り離すことができないものだと思う。自分にとって、あの人は牧師なのであって、牧師以外の何ものでもないと思っている」というようなことを答えました。
まだ洗礼を受けて2年も経たない息子ですが、なんと研ぎ澄まされた、優れた霊的感覚をもっているのだろう、と私は感動しました。たんなる親バカで言っているのではありません。私もまた、教えられました。たとえ牧師という職業ではなくなっても、牧師なのだ、と、自分に洗礼を授けたその若い牧師を見つめる息子には、確かに神の霊が働いていることを強く確信しました。