文章、消えちゃいますよ
2020年3月25日
テキストエディタ、お使いですか。私は専ら文字はテキストエディタに打ち込んで保存しておきます。テキストエディタというのは、文字を打ち込むだけのシンプルなソフトウェアが基本で、Windowsならば「メモ帳」というのがあるかと思います(最近のは知らないけど)。
なにげないメモを、Wordに打ち込んでいる人がいますが、自分が起動するのも大変でしょうが、相手も、たかが文字を見たいだけなのにどっこいしょ、とWordを起動させないといけないので、厄介です。歩いて3分先のコンビニに、キャンピングカーで行くみたいに大袈裟なことだと思えて仕方がありません。
文字のみ伝えればよいのであれば、「メモ帳」で十分。軽い、軽い。ところがこの「メモ帳」はあまりにシンプル過ぎて、もうちょっと使い勝手がよければなぁと思う場合があります。たとえば「元に戻す」というのが一回しかできない。昔から私が愛用しているTeraPadというのはいくらでも(厳密には有限だが)前の状態に戻せるので、便利です。それでいて起動の軽さは「メモ帳」と殆ど変わりません。レイアウトや背景色などもカスタマイズできるので、好みで快適に使用できます。行数も見えますので、どのくらいの分量かも明確に分かり、気に入っています。その他、私は使用目的に合わせて、おもに三つのエディタを使用しています。
要するにこの文章も、テキストエディタで入力しているのであって、投稿するときには、そこからコピーして、投稿欄にペーストする、という具合です。予め書きためておく場合が多いので、推敲も(実はあまりしないのですが)テキストエディタにて行います。
どうしてこういうことを書いているかというと、いきなり投稿入力画面に打ち込んでいる人がいる、と思うからです。入力途中で誤って投稿してしまったり、何らかの事情で、書いてきたものが消えてしまったりするリスクがあるので、私はまず滅多にそうはしません。パソコンだと「附箋」というのも便利ですから、一旦「附箋」に打ち込んでからコピー、というのもありえます。但し、せっかく書いた文章ですから、それを文章として別に保存しておくべきだと考えるので、エディタに打ち込み、そこからテキスト保存しておく、という流れになります。
私は、SNSなりblogなり、そういうシステムを便利だとは思いますが、内心あまり信用していません。自分の考えたことを、たとえばFacebookに打ち込んでおけば保存してもらえるから、またそれを見直したいとき、利用したいとき、検索すればいい、などとは絶対に考えないのです。だって、いつFacebookのサイトに異常が発生し、データが消えるか、分からないのですから。また、Facebookが閉鎖されないという保証がどこにあるでしょう。近々閉鎖します、と発表されたとき、慌てて自分の過去の投稿を探し出して保存しようとするのは大変です。
もちろん、保存する必要がない人もいようかと思います。何を食べたとか、どこそこに行ったよ、という程度(失礼)の投稿しかしないならば、それが消えたところでさして不都合は起こらないでしょう。しかし、私はそうは考えないので、手許に必ずバックアップしておく訳です。
同じFacebookでも、そこから自分のblogなどにリンクを張る人がいます。そのblogの原稿にしても、私なら必ずテキストとして手許に書いて、それをコピー&ペーストして投稿するという仕組みにしています。皆さまはどうしていらっしゃるのでしょうか。これも、そのblogを信用してすべて自分の文章を委ねている、などという方がいらしたら、ちゃんとバックアップをとらないと、と老婆心からお話しさせてください。
blogの閉鎖を、私は二度経験しました。いつその運営側の都合で、閉鎖されるか分からないのです。幸い、blogそのものを投稿し直す必要がないシステムがあります。どのサイトでもblogそのものは似たようなシステムで作られていますから、「お引っ越し」の世話を、普通はしてくれるのです。かつて投稿したblogの記事を、ほぼそのまま別のblogに移してくれるのです。これを私は二度やりました。最近は、noteなどというサービスがてきて、一定量の意見文を載せるサイトがあります。これも、文章をただ打ち込めば、整った形で掲載してくれるので便利です。blogもそうですが、自分でウェブサイトを構築するのが普通大変なので、またそれをするのにしばしばそれ相応の費用を必要とするので、無料のblogやこのnoteのような運営サイトにただ文字を打ち込んで世話をしてもらおうという気楽さが好まれているということになるのでしょう。しかし、このnoteのようなサービスも、いつ突然のように閉鎖されるか分かりません。そんなとき、たとえ文章そのものはテキストとして手許に残してあったとしても、もうそれを公開して人々に読んでもらおうとすることが難しくなります。また新たなサービスを見つけて、一つひとつ投稿し直すことになるからです。
ここで、皆さまには、ウェブサイトについてまたお尋ねしたいと思います。ご自分のウェブサイトをお持ちですか。以前はよく「ホームページ」と呼ばれました。ホームページというのは、ウェブサイトのトップページのことを呼ぶ名称ですから、全体を指すためには不適切です。自分の家の玄関のドアを見せて、これがわが家のすべてです、と言っているようなものです。全部を言うなら、「ウェブサイト」と呼ぶのが適切かと思います。
無料ホームページ、と以前はよく言われていましたのですが、ウェブサイトを無料で使うことができる仕組みはたくさんあります。無料ならば大抵広告が入ります。広告の入り方もいろいろあり、確かに目障りなものもあります(いや、無料というのはその広告料によって成り立っているので、広告はあって当然ですから迷惑がっちゃいけませんけれど)が、中には殆ど目立たないような文字広告のみ、というところもあります。全体的に、広告はそんなに迷惑には感じません。さすがに無料なので、動画をばんばんアップしていくと容量が足りなくなりますが、文章主体でほどよく画像を混ぜたとしても、動画さえなければまず困ることはありません。中には、blog感覚で入力すればある程度形式を作ってくれるサービスもありますから、プログラムの知識がなくても少し学べば活用できる場合もあります。
ホームページ作成ソフトというのもあって、これは手許に有料のソフトウェアを買ってそれに任せていけばウェブサイトが整うという仕組みです。これはアップロードしなければ、自分だけが見られるサイトとして満足することも可能ですが、これをFTP(File Transfer Protocol)という伝送の仕組みを用いて、その無料のウェブサイトにアップロードすれば、それで自分のウェブサイトが公開されるということになります。私は貧しいので、独学でHTMLを学び、ウェブサイトを構築できるようになりました。そのため、そのHTML辞典などを除けばすべて無料で、ウェブサイトを立ち上げることができました。余談ですが、これで二度、教会のウェブサイトを作らせて戴いたことがあります。プロではありませんから、様々なスクリプトを盛り込んだ、いかにもの洒落たデザインのものにまではできませんが、むしろシンプルな中にも少し気を利かせた構造にして、何よりアクセシビリティを意識して、色の使い方を色覚的になるべく問題がないように心がけながら、そしてどういう環境でもサクサク動くように作りました。素人的であることは否めませんが、利用しやすいものであり、またアピールの度合いもまずまずではなかったかしら、と考えています。
どうしてこうしたウェブサイトがお薦めかというと、たとえその無料ホームページの会社がなくなったり、そのサービスを中止したりしても、手許に作った自分のウェブサイトをそのまままた別の新しいサービスのURLにアップロードしさえすれば、簡単に再現できるからです。実はこのホームページサービスの閉鎖も、私は一度体験しています。これは、偶々やる気のない接し方をしていたので、そのまま消えるに任せましたが、それを機会に、もうひとつミラーサイトを用意することにしました。全く内容の同じウェブサイトを、別々のサービスのもとに二つこしらえるということです。どちらかに不都合や傷害が生じても、もうひとつは公開されているというふうになります。
SNSにアップした文章は、自分のウェブサイトに載せて公開しています。SNSでは一定の範囲の人にしか見られないことがありますし、twitterにしても、過去のものを見てくれる人はまず殆どいません。常に新しい情報だけの世界となります。そこで、過去の文章もじっくり見てほしいと思ったり、またそれが誰かのために資料価値があるものとだと考えたりする場合には、SNSではなく、通常のウェブサイトとして万人に開かれていることが望ましいということになります。
やり方や好みは、人それぞれ。ただ、リスクというものは考えていて然るべきことだと思い、要らないことを長々とまた綴ってきました。これもやがて、ウェブサイトで公開されることになるでしょう。それにしても、せめてバックアップはやはり取っておくべきじゃないか、とは思うのですけれど……。そう、パソコンだって、いつ起動しなくなるか、知れません。常に文書はUSBやカードなどの外部記憶装置にコピーしておくこと、それは作業中でもこまめに、少なくとも一日一回はしておかないと、何かあったとき被害甚大です。画像などは4GBほど溜まったら、データ用DVDに焼くなどしておく必要があるでしょう。ディスクは耐久性の上でやや劣りますが、ないよりはよほどいいと思われます。クラウドに保存というのもひとつの知恵ですが、そのクラウド自体がいつポシャるか分からないのですから、過信しないようにすることです。
要するに私は、他人を信用していない、ということに尽きるのでしょうか。