経済的困窮

2020年3月19日

たとえば小さな教会で、牧師が副業として、小さな会社でアルバイトをしているとします。もちろん正社員であってもよいのですが、可能性としては非正規雇用者であるほうが高いと思われるので、そうしておきます。教会での謝礼だけでは生活が成り立たないので、教会での仕事に差し支えのない程度に仕事をしているものとします。
 
それがこの度の新型コロナウイルス感染症の問題で、その小さな会社はとたんに立ちゆかなくなりました。会社としては倒産寸前にまで追い込まれます。いい人なんだが、といった言葉をかけてはくれるのですが、この牧師を解雇することとなりました。しかし教会の献金事態も、礼拝式を見送っていただけに、いわば収入ゼロに等しい状態となりました。
 
そんな馬鹿な、牧師給与というのがちゃんとあって……という、恵まれた環境にある方も多いことでしょうが、たとえばの話ですから、目くじらを立てないでください。要するに、世間にはこんな立場の人がいくらでもいる、ということです。突然の学校休校で、核家族に共働き(そもそもこうした言葉を出すこと自体恥ずかしくなるくらい、今では普通になっているということを私たちは忘れているのかもしれません)家庭では困り果て、減給措置の事態となるところもあるでしょう。休校に伴い、またイベントが要請もされないのに勝手に自粛の連鎖となった中で、成り立たなくなった商売も多々あります。街がそもそも人通りも少なく、飲食店も開店休業のような有様で、給料どころの話ではないというところも、わざわざ探す必要のないくらいにいっぱいあるのです。実際観光関係では店をたたむという話もあちこち聞かれます。
 
伝染病に関する新しい法律が、国民の権利を冒す可能性が問題視されました。直ちに適用するつもりはない、などという談話もありました。しかし、もうすでに、多くの会社が窮地に追い込まれており、個人に至っては途方に暮れている人がいくらでもいます。つまり、現時点でいつの間にか、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利は、冒されているのです。突然の思いつきの措置により。それが功を奏しているのか、意図的に検査をしていないのか、そこまでは考えないことにしますが、法律でない「要請」に右へ倣えということで、結局は社会的弱者が切り捨てられる構造と現実がすでにあるということに、気づかねばならないと思います。
 
そう、新型コロナウイルスの終息を祈ります、などと口ではいくらでも言えるのですが、まさにいま困り果て、明日の生活に怯えている人にとっては、ウイルスの終息というのが一番のテーマではなくて、自分の生活や人生の終息の方が先にくるような現状であるということを、切実に感じる必要がないか、と提言します。
 
確かにウイルス自体、問題です。高齢者や一定の病歴のある人には命取りです。感染力の強さ以上に、免疫を誰もがもたないが故の拡散で、政治家もですが報道機関も舞い上がっているところがあります。報道機関も、スポンサーで成り立つところは、実は危機的であるとも言えるはずです。そうです。検査機能の問題をさしあたり擱いておくとすると、この感染症にかかるというのは、宝くじで当たるくらい珍しい数字であり、(大変不愉快な表現をとってしまいますが)亡くなるに至るとなると、さらに1等に当たるくらい珍しい事例というのが、数字の上での現状です(繰り返しますが心ない比喩ですので、さしあたり目を瞑ってください)。しかし、生活が成り立たなくなっている人、なりかけている人は、辺りを見渡せばきっと見つかります。いえ、自分自身がそうだという方もいらっしゃることでしょう。私もまた、そこまで酷くはないにしても、だいぶ痛いのです。
 
中国の一部もそうでしたが、イタリアなどでも医療従事者がもう続かないくらいに疲れ果て、医療体制が破綻していると伝わってきています。日本ではよく持ち堪えているとさえ思いますが、現場は大変です。まだパニック状態にはなっていないようですから。しかし一部の医療機関は大変ですし、とにかく経済が混乱しているのは間違いありません。
 
手洗いの方法などは、これだけ言われていても、テレビ局の人もちっとも理解しておらず実行していないような状況ですが、曲がりなりにも、衛生教育がようやく注目され始めたのは、悪いことではありません。ただ、それと同時に、私たちが祈らなければならないこと、気づきたいことというのは、どこにあるのか、もっと目を開いて知るようにしたいと願います。



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