礼拝中止でなくともインターネット礼拝ならどうか

2020年3月15日

礼拝中止。その言葉について無感覚になっている教会に私は憤りました。どなたか読んで下さったのか、私は殆ど知りません。口頭で感想をくださった方がいたほかは、分からないのです。でも、まるで私の声が届いたかのように、その後、幾つかの教会で、「礼拝中止ではない」というような、幾分言い訳めいた部分がないわけでもないような発言が見られるようになり、それが私の声をきっかけにしていたにせよそうでないにせよ、よい動きが出始めたと思っています。
 
いろいろな教会の事情があります。交通事情や年齢層、また新型コロナウイルスの感染について厳戒地域などでは、安易に集まりましょうということが命取りになりかねない場合もあるのです。そのような背景の中で、たとえ集まっての礼拝式を執行することができなくなったとしても、「礼拝」を中止してはいけない、というのが私の言ったことでした。それはキリスト教会の死を意味するから、とまで憤っていました。
 
そこでクローズアップされたのが、インターネット礼拝というものでした。従来からオープンにしている教会も多々あります。完全にオープンでなくても、礼拝式の場所に来ることができない仲間のために内部アクセスのみ可能な方法で中継するなどの工夫もありました。カトリックの教会でも中継をしてくれるところがあって、私は初めてそれを見て感動をおぼえました。見事なメッセージでした。
 
だいぶ前ですが、お寺がインターネットを使い、画面の向こうで僧侶が読経して法事を行うというシステムができたと紹介されたことがありました。多くの声は、けしからん、というふうであったと思います。そんなことで墓参をしたことにならない、という感覚が、その時代の多数派の感覚だったと思われます。いまはどうなっているか、またいまなら受け容れられるのであるか、私には分かりません。
 
ですから、キリスト教もネットで礼拝中継をするとなったとき、「礼拝とは何か」という問いが起こってくることも、また自然なことです。インターネットを通じて、果たしてそれが「礼拝」なのかどうか、考えたいという声も聞かれました。そもそも「礼拝」とは何だろうか、これを問い直す機会となればよいと私は思います。
 
ある牧師さんは、ネット中継画面の前を片付けて聖書を並べて心を整えて礼拝することができるだろうか、と疑問を呈していました。ラフな雰囲気で、いい説教でした、などと言ったとしても礼拝ではないように思う、という声でした。
 
お気持ちは分かります。牧師の立場として、礼拝式は厳粛なものと受け止めていないといけないでしょうし、説教の対象がライブで見えない中で、舞台俳優でなくテレビで演じているときに観ている人がどう反応しているか分からない不安さもあることでしょう。いえ、やはり礼拝式とはこうあるべきもの、という型があるので、お気楽に画面を見てもらうことに抵抗を持つということは、私も理解できます。それゆえ、以下はこの方の言っていることを非難しているのではないのです。言いたいことは私なりに汲みとっているつもりですから、直接言っている内容について、ましてこの方について、烙印を押そうとしているのではないのです。
 
ただ、この牧師は、私から見て決定的によけいな一言を付け加えてしまいました。「コーヒーでも飲みながら」ネット画面を見て云々、と書き込んでしまったのです。コーヒーを飲んだら礼拝にならない、と決めてかかったのは、コーヒーが好きな私にとり、カチンとくる言葉でした。でも、感情的にそうなった訳ではありません。このような見方には、私たちが陥りやすい、しかし気づかないでやるそのことにどうしても気づかねばならないと私がいつも思う、重要な問題が隠れているからです。その問題に焦点を当てての言及であることを、どうか寛容に受け止めて戴きたいと願います。
 
コーヒーがダメであるようなら、たとえばそれでは横になってインターネット礼拝画面を見ていてはいけないでしょうか。病気で寝ているクリスチャンはどうなのでしょう。点滴でも受けながら画面を見ても礼拝ではない、と言われたら、どんな気がするでしょう。そして第一、「日曜日に教会に来ないのは信仰がない」などというメッセージは、まさかしていないでしょうか。いや、病気の人は仕方がない、と答えてはいけないと思います。仕方がない、ということは、本当はそれではいけない、と言っているからです。入院のベッドの上でも、自宅から動けない病人であっても、その場が礼拝になる、ということを揺るぎない確信を以て語らなければならない、と私は考えます。もしこの考えに賛同して戴けるならば、コーヒーを飲んで画面を見ているのは礼拝にはならない、というふうには仰らないだろうと思うのです。出張の途中で、コーヒー店でネット中継を見て、精一杯心を献げている人がいたとしたら、それは礼拝じゃないよ、と冷たく言い放てないだろうからです。
 
やむをえず仕事に就かねばならない人は、礼拝の時刻も仕事にかかりっきりでなければなりません。でも、神よ、と祈りつつ何かすることはできるかもしれません。それでも、この人は礼拝式に出席していないから、礼拝をしなかったね、と突き放されなければならないのでしょうか。教会の礼拝時刻には、医療に従事するクリスチャンは礼拝できないダメな信徒なのでしょうか。また、対人恐怖症の人が礼拝式の集まりに出席できない場合、それはクリスチャン失格になるのでしょうか、などというように、幾らでも例を示すことができるように私には思えます。
 
こうして具体例を挙げると、そのうち或る場合は構わないが、或る場合はダメだ、というような価値判断が出てくるかもしれません。それは何によって区別するのでしょう。極めて個人的感覚による区別や恣意的な区別に過ぎないのではないでしょうか。要するに私の言いたいことは、こうです。
 
神に会おうとする魂について、見かけで排除してはならない。また、見下してはならない。
 
もちろん、できるならば礼拝式に出席するとよいのですし、そのことには大きな意味があります。大いに集まって、顔の見える共同体の中に居場所をつくって戴きたい。その場所に集まった方が悪いはずはありません。しかし、集まれない人を、どんな意味においても、どんなに僅かでも、排除するような考え方を懐いてはいけない、と考えるのです。
 
礼拝式に来て、献金をしなければ教会に収入がないではないか。まさかそんなことを考えているのではないと思いますが、礼拝式に出席しなければ無意味だ、というような言い方をする方は、昔はいたと思います。そういう厳しさに一種の味があったことを否定するつもりはありません。けれども、もう私たちはそういう理解をしないのです。それは、昔は教師は厳しく教育していたから、びんたは当たり前だった、などと言っているのと比較され得ると見てください。いまそれを実施して、愛のある教育だなどと評する考えに、どれほどの人が共感できるでしょうか。
 
コーヒーを飲みながら、キリスト教放送局を聞いて神と出会った人もいます。酒をなめながら聖書を読み涙した人もいます。それがいいですよ、と推奨するつもりはありません。しかし、それは嘘だ、救いなんかそこにない、と非難することができる人がいるとしたら、それはその人の出会っている神をおいてほかにはないでしょう。そこに拙さがあるならば、神自らが、その出会いの中で、その人に告げることでしょう。まるで自分は立派な信仰をもっていると自負する者から、その人にダメだよと非難するようなことは、してはならない、と私は思うのです。
 
イエスは、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」と釘を刺しました。「彼らは既に報いを受けている」からです。また、「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない」と言いました。偽善者とは何のことであるのか、私たちはもっともっと真剣に考えないといけないのではないかと思います。
 
私もまた、痛みをもつ人の辛い気持ちに気づかずに、冷たい言葉を毎週ぶつけているような者のひとりです。言った後で気づいて戦くようなこともあります。教会が、誰かを排除する論理を正義と自認するようになってしまうと、愛がなくなり、命がなくなります。最後に、常に懐に弁え、味わい続けるようにしたい、イエスの譬えを置いて筆を擱きます。
 
18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」



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