礼拝中止
2020年3月5日
言葉って、大事なものです。同じ思いから発されても、放つ言葉の違いによって、相手に伝わるものが全く変わってくることがあります。だから私たちは愛の告白のために、どんなに悩むことでしょう。
次々とSNSに飛び込んで来る、教会発信の「礼拝中止」のお知らせ。
はっきり言うと、腹が立ちます。教会が礼拝を辞めちゃったということは、教会を閉じたという意味ではないのでしょうか。
言いたいことは、「日曜日に集まらない」ということだと推測します。だから日曜日はこの時刻に(それは決めなくても構わないとは思いますが)、神を礼拝しましょう、そのとき心も信仰もつながっていますし、神の前に自分を献げましょう、といった呼びかけではなかったのでしょうか。
そもそも日曜日に勤務の人がいますし、日曜日に教会に信徒を運ぶバスや電車の仕事の方や、タクシーの運転手などへの、申し訳ないような感謝の心をクリスチャンは懐いていることかと思います。その中にはクリスチャンの方もいるでしょう。医療従事者や福祉介護の方も日曜日に尊い働きをしている方が沢山います。ではその方々は、礼拝をしていないのでしょうか。「礼拝中止」と安易に呼びかける言葉は、この人たちは礼拝していない、と宣告しているようなものにも聞こえます。
礼拝はできるのです。私たちはしています。いわゆる教会の儀式としての礼拝式に出席ができるかどうか、という点では様々な違いがあるわけですが、職場で心から神を礼拝しながら働いていることを蔑ろにする気持ちは持ちたくありません。病床で神に祈っている人に、あなたは礼拝していない、などと突きつけるつもりは全くありません。むしろ、その人の祈りによって、私は支えられている、と強く思います。
確かに、命に関わる問題でもある、という判断は適切なものでしょう。集会としての礼拝を開かないことに決めたというのは、それぞれの教会の事情もありますから口出しできることではありません。けれども、「礼拝」を「中止」するというような言い方だけは、してほしくないし、してはならないと私は考えます。
言葉ひとつの問題かもしれませんが、言葉の大切さを日ごろ聖書から説いているはずの教会ならば、「礼拝をやめました」という意味を表す「礼拝中止」という看板を掲げることはして戴きたくない。但し、本当に死んでしまったことを言いたいのなら、その言い方は正しいことなので文句は言いませんけれども。