責任逃れ
2020年3月5日
そもそも「自由」という概念は厄介であり、古来多くの議論がなされてきました。それに伴うとされる「責任」にしても同様で、「自由」の定義の仕方次第でどうとでも論ずることができました。さらにこれに「権利」とか「義務」とかいう言葉を重ねてくると、もはや収拾がつかなくなる事態となりかねません。
そんな哲学的な議論を展開しようというのではないのです。
日本社会での昨今の動揺の中では、平時には隠されていた人間の本性が露呈されてきているように見受けられてしまうのですが、その中で、「何かあったら責任を負えるのか」という言葉がよく聞かれました。あるいは、言わずもがなで殆どの言明がそれを隠し持っているように思われました。
でも待てよ。政治の世界を反面教師として見ると、誰も責任を取らないままに、ずるずると流れていくようなことが多くありませんか。責任を取らなくて済むように、言い逃れをして、いやズバリ言うと詭弁を用いて、法の網をくぐれるように最大限の努力を払っているかのように見えはしないでしょうか。庶民は「責任を取る」ことを暗黙のうちにであっても脅されており、為政者は「責任を取る」ことのないように立ち回っている、という図式があるとすれば、怖いことです。簡単に統率できるからです。そしてそれがいま、起こっているように見えて仕方がないのです。
一見、責任を取って辞めるような形が取られることがあります。けれども、すぐに別の、そして全く同じような人物がその地位に就き、結局何も変わらないようなあり方が続くことがあります。首のすげ替えという儀式をするだけで、悪や失敗を通りすぎていくだけです。そこには「購い」がありません。この構造にはもっと注目して然るべきだと考えます。
ところで、責任は、他人が取るものであって、自分が取るものではない。これは人間の心に巣くう性質であるとは言えないか。当然この論理はぶつかり対立しますから、互いの力関係で強い側にある者がこの論理を司ることができ、弱い側は不条理を覚えつつ敗北する、というのが歴史の流れではないのか、と思うようになりました。
強い者同士の対立が政治の場面であるかもしれませんが、どうにも強い側が責任を取らざるをえない羽目に陥ったとしても、トップが辞めて代役がその地位に就くだけであるとすると、まるでカートリッジのようにその組織自体は平然と存続することになります。かくして強い組織はよほどのことがなければびくともしません。
形だけ責任を取るということもよくあり、結局のところ自分に責任があるとして引き下がることを、人はなかなかしたがりません。それなのに、心優しく潔い人ばかりが、誠実な故にいつも責任を負う思いに苛まれます。果ては鬱になり、あるいは自ら命を断つというところにまで追い込まれてしまいます。脱出の道が見つからないためです。
自分には責任がない。誰もがそのように思いたいのです。しかし、現実には悪いことが起こります。誰のせいだ、と犯人探しをします。誰かのせいにしたいからです。誰かが責任を取るべきだと考えているからです。だから、誰でもよいのです。いじめは、この責任を皆で特定の誰かに担わせることを、興奮の坩堝の中でよってたかって行うわけです。そうして、事が誰かのせいであると多数が納得したならば、多数の者はそれぞれ、自分には責任がないという了解を得ます。つまり、自分は正しい、ということが証明されます。自分が正しい、ということを前提として、それを周囲の人々に示すために、誰かに責任をかぶせようとするのです。
こうして、自分が正しい者として安心したいためのシステムが、その場の気分や勢いで不条理になされ、スケープゴートを選び、すべてをその責任に押しつける現象を起こします。確実に、人がそれをつくります。
ところがこのスケープゴートというのは、ヤギに罪を負わせますが殺しはしません。野に放つだけです。それを思うと、人の罪を負わせ屠り焼き尽くすという、羊や牛などの他の動物のほうが、よほど気の毒にすら思えてきます。
私たち人間は、その究極の押しつけとして、イエス・キリストを屠りました。自分に責任がある、ということを痛切に感じ入ることのできた人だけが、この方と出会うことができるのであり、そこで命を捨てた赦しを体験することができます。自分に責任がないと思い込むことの愚かさから逃れるため、そして自分に責任があると思いつつそれに押しつぶされないために、聖書にいまいちど向き合ってみたいものです。たとえクリスチャン生活を送っている人であっても、自分に責任がないかのように思い込む道へ、人は簡単に連れ去られていくのです。