【メッセージ】ひとの足を洗うということ

2020年3月1日

(ヨハネ13:13-17)

わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。(ヨハネ13:15)
 
プライバシーもありますから、事実も含まれますが脚色を豊かにお話しします。
 
目立つ奉仕を喜んでいろいろする人がいました。人に褒められるとうれしく思いました。話もうまかったので、教会員はこの人を受け容れ、信用しました。学校で教師をしていたので、教会内でも「先生」と呼ばれていました。執事になり、牧師不在のときに一度奨励すると、社会的な問題を分かりやすく話してくれたそうです。しかしこの人、実は聖書のことを何も、と言っていいほど知りませんでした。神と出会い、向き合うということなしに、自分の興味のある文学のひとつとしてしか聖書を読んでいなかったのですが、そのことがはっきりするのは後のことでした。だから聖書を数回通読したので自分は何でも知っている、などと考えていました。非常に自己愛の強い人であったため、ついには自分の考えていることこそ正しくて、それに反するものはすべて馬鹿だというような考えに支配されるようになりました。そうして教会で起きた問題に自分の正義ばかりを訴えて混乱させ、似たような人が傍にいたこともあって、教会をすっかり壊してしまうに至りました。その後もどこかの教会に行けば自分を認めてもらえるのではないかとあちこちさまよい続けましたが、なかなか以前のようには尊敬してもらえず、目立つ奉仕をさせてもらえないようです。それでも教会に何かがあると求めているところは、きっと神がそういう思いを与えてくださっているのでしょう。
 
もう一人、こんな人がいました。朝の礼拝にはあまり来ず、午後に時々顔を出す人がいました。奥様の具合がよろしくないので、家にいてあげないといけなかったようです。これまで世の中でいろいろ苦労されていて、午後ちょっと顔を出したときには、教会の立て付けの悪いドアを直したりしてくれたりしました。大工さんをしていたのです。いい人だなという印象でしたが、あるとき教会の長椅子のことが話題になり、牧師が口を開きました。会堂を建てたとき、長椅子を設置しようということになったのですが、お店に行ってもなかなかこれというものがなかったそうです。なかなか思うような高さと座り心地の長椅子が探し出せなかったとき、そしてそのためにたくさんの費用をかけられなくなっていた実情もあって、どうしようかと考えていたときのことでした。この人が一から椅子をこしらえましょうと申し出てくれました。そして、牧師の求めたものにぴったりの長椅子ができあがりました。私たちは毎週その椅子に座っておきながら、その椅子がどんなに心をこめ、また仕事の合間や休日を費やしてその人が作ってくれたかということに、気づこうともしませんでした。
 
イエスの弟子たちは、イエスのことを「先生」と呼んでいました。イエスはこれを否定はしませんでした。嘘ではないからです。しかし、この対話の直前、福音書の中でも有名な場面がありました。イエスが弟子たちの足を洗ったのです。これは驚くべきことでした。
 
「足を洗う」、日本語だと、悪の世界から抜け出ることを言うので、キリスト教界では「洗足」という語をつくり、使っています。「洗足」(せんぞく)は東京都目黒区にある区域の地名なのだそうですが、私にはそれは疎いかぎりです。少し調べてみると、これは日蓮が足を洗った故事に由来する地名だそうですが、駅名と共に地名が決まって間もなく、洗足高等女学校が移転してきたといいます。こちらは学校の設立者がクリスチャンだったからで、不思議な謂われがあるものだと思います。ただ、キリスト教で「洗足」という語を使うときには、普通「せんそく」と読んでいるような気がします。
 
ところが、聖書の本文ではこれは「洗足」のような名詞では現れず、常に「足を洗う」というふうに、動詞+目的語になっています。
 
どうして足を洗う必要があったのでしょうか。乾燥がちで砂埃などを浴びながら外を歩く人々にとって、自宅の中にその砂埃を持ちこむことはよくありません。花粉付きの上着を室内にそのまま着て入ってしまうから、花粉症がひどくなる……のかもしれないように。埃だけではありません。雨が降れば足は泥まみれになります。普通、人はサンダルのような履物を履いていましたから、足自体もそうとう汚れます。家の戸口には水瓶が置かれており、そこで自ら足を洗う、というスタイルもありましたが、召使いがいる家では、召使いが主人や客の足を洗うというのが当然でした。召使いというのはずばり奴隷のことです。基本的人権が保証されない、主人の財産として扱われる人間であり、喋る動物とまで呼ばれた者たちです。しかしもしかすると、主人がへりくだり、客人の足を洗うというようなことも、行われたかもしれません。
 
ですから、イエスが弟子たちの足を洗ったということが、弟子たちにとりどんなに意外なことであり、ショックであったかことか、それは私たちが想像する以上であったのではないかと思います。牧師や伝道者が立派になり有名になっていき、信徒に足を洗わせているような有様を当然のことのようにしているような例はありませんか。表向き奉仕しているように見せかけて、精神的に洗わせているようなことは、もっと多いかもしれません。牧師としていわば成功する人がいて、それはそれでたいへん結構なことですが、先生、先生と慕われてまた尊敬されていくうちに、初心を忘れてしまう人がいます。それこそ、駆け出しの政治家のときの熱意はどこへ、お偉くなった政治家のような態度に見えてしまう人。このような変化は、信仰の有無に関係なく、どんな人間にも起こり得ることです。
 
ですからそれは、信徒についてももちろん言えることです。イエスの洗足の場面から、説教はしばしば「謙遜」をテーマにして語られますが、ほんとうの意味での謙遜は、なかなか私たちには全うできません。表向きだけ謙遜に振る舞うこともできます。しかし、何かあれば、それが演技であることが暴露します。剥き出しの本性をぽろりと出し、この人はそういう人なのだ、と露呈してしまうこともあるのです。口先ではどうとでも言えるのです。
 
たとえ褒められなくても、自分の苦労してしたことが多くの人に認められたりしなくても、コツコツと隠れて、誰かのために、誰かの笑顔を思い浮かべながら楽しめる、そんな人が、きっと、私たちの知らないところに沢山いると思います。その人に気づけ、とは申しません。難しい話です。ただ、どんな人でも、そういう働きをしているのかもしれない、という含みで接すると、人付き合いにゆとりができるかもしれません。当の人は、もしかすると、神はご存じだから、神は見ているのだから、とその苦労の業を喜んでいるかもしれません。私もそういうふうでありたいと願っているのですが、どうしても出しゃばりで、目立とうとするように皆さまからは見えるかもしれませんね。
 
ただ、これはお伝えしましょう。神は、あなたの隠れた思いやり、誰にも気づかれないささやかな奉仕や犠牲、それを皆ご存じだということです。神はあなたを見ています。人に知られないからやっても無駄だ、とお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、恐らくいま耳を傾けている方は、むしろ、何かしらいいことをしたんだが誰も気づいてくれない、という経験を多くお持ちではないかと推察します。そう、大丈夫です。人に知られなくても、人から尊敬の眼差しを受けることがなくても、あなたはイエスに足を洗われました。でもそれはもったいないことだ、とイエスの足を洗いたいと思った人はいませんか。いてほしいと思います。イエスは、それをたぶんお許しにならないだろうと思います。私を洗わなくてもよい。その代わり、あなたの近くにいる人の足を洗ってやってごらん。そのようには言うのではないかと思います。そしてその言葉に促されて、そのまま信じて、あなたが近くの誰かのために、誰にも知られないような形で足を洗ったとするならば、それはきっとイエスは分かっているのです。それだけは安心してよいと思います。あなたがイエスの言葉を受けてやってみたこと、労力を費やしたことは、決して無駄にはなりません。イエスは知っています。あなたを知っているのですから。
 
「謙遜」は他人に強いるものではなく、自らなすことであることは確かでしょう。ひとり聖書に向かい、イエスと出会い、霊の交わりがあるところでこそ、自ら誰かの足を洗わせて戴こうとする心が始まることでしょう。まずは、自分が誰を主人とし、誰の奴隷(召使い・しもべ)となって仕えたらいいのかを覚ることから、始めたいものだと願います。



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