三月ウサギ
2020年3月1日
Mad as a March hare. 3月になるとウサギがおかしくなる。『不思議の国のアリス』に登場する「三月ウサギ」はイギリスの言い回しから生まれたキャラクターではないかと言われています。
春です。ローマ帝国であれば、ここから新たな一年が始まるとされる時です。3月から数えて7番目の月なので「7」を表す「septem」がいまの9月の語の一部となります。いわゆる「七十人訳」を「septuaginta」というので納得という方もいらっしゃるかもしれません。「octo」が「8」を表すのは、蛸の英語から問題はないでしょう。以下、「novem」「decem」も数字の順番通りとなります。
だから日本で年度を4月から始めるというのは、意味があるのであって、むしろ1月の決め方のほうが、中途半端観が強いような気もします。不安を抱えての船出ともなりますが、新たな出会いを期待できる時季であるとも言えるでしょう。
高校の卒業式が3月1日に行われることが多いのですが、それも今年は直前にとんでもない混乱が引き起こされました。「要請」という名の「強制」でしたが、洗脳されたかのように、一斉に自ら従っていく世の中を見て戦慄を覚えました。かつての歴史を反省して二度とあんなことは、というような声が強くなってきたと思った世の中が、全く何も変わっておらず、まるでDNAに組み込まれたていたかのように、同じ道を自ら踏んでいるように見えたからです。
もはや戒厳令も要りません。法律すら必要ありません。不安で掻き乱すと、いとも簡単に支離滅裂で行き当たりばったりの思いつきの政府に見事に従うことが分かりました。
新型コロナウイルス。このネーミング(名づけた訳じゃないのですが)がまた不安を呼び起こしました。これがもし「新型インフルエンザ」であったら、ここまでにはならなかったことでしょう。馴染んだ名前であれば、感染力が少々強いなどと言われても、それなりに身構えられます。しかし、正体が分からず、名前も聞いたことがないような相手だったからこそ、不安が高まりました。これで浮き足だったところへ、インフルエンザで毎年亡くなっている方の人数の千分の一でも出ると、もうパニックとなっているのが現状です。もちろん、軽視することは厳禁です。措置として間違っているなどと申すつもりはありません。しかし、不安は不安を煽り、SNSの時代はデマの伝達も速く、湯を飲めば大丈夫とか、トイレットペーパーがなくなるとか、訳の分からない情報を拡散し、行動に出る社会現象が起こりました。むしろこのデマのほうが、よほど感染力が強かったのです。
実に怖いことだと思いました。
これが、教会やキリスト教で影響力のある人までもが、ひっかかったり、右へ倣えの一員と次々と変えられていくので、これもまた聖書的で怖いことだと思いました。3月1日という春の始まりに、少なからぬ教会が、全く礼拝行為を棄てました。教会が二千年守ってきたと自負していたはずの礼拝までも、止めました。止めるための理由はいろいろ用意され、時に聖書の言葉を根拠にしようとしているように見えました。「主よ、あわれみたまえ」と繰り返すカトリックなどの祈りを、プロテスタントも学びたいと強く思いました。いったいこの日は、後にどのように思い返すのでしょう。「仕方がなかった」「あれが最善だった」などと、いつか聞いたような溜息がまた繰り返されるのかもしれないのか、と危惧します。
三月ウサギのせいだ、という理由づけのほうが、もしかするとまだましだったのかもしれません。
でも、病に冒され苦しんでいる方々を思います。高齢者の苦痛と、また一般の方々の不安と怯えのために、それらが取り払われるように、と祈ります。特に医療現場で身を張って闘っている方々のために、祈り続けます。この事態で困難を背負わされた方々のために、また閉じ込められて精神的に悪しき影響を受ける可能性が高い子どもたちのために。だからまた、教会学校という場を開いて、子どもたちの心を抱えていく勇気が、再び起こらないものかと願います。そしてまた、おかしくなってきた日本全体を動かす権威を与えられているブレインが癒されないとさらに方向を誤ることを、ただぼやいたり非難したりするのでなく、神の力と憐れみを及ぼして戴くことを求めます。
そしてもし教会が一度命を失ったとしても、このままもうひとつの死を迎えるのでなく、方向転換をして復活し、二度ともう死なないように、祈ります。それはまた、圧倒的に、自分の姿であるものと灰をかぶりつつ。