新型コロナウイルスと教会の岐路

2020年2月28日

人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。(ローマ13:1)
 
キリスト者の中には、この聖句を苦々しい思いで見る人もいることでしょう。しかしいまこそ、この言葉に従う時ではないでしょうか。いや、従うというのは語弊があります。というのは、ネットから見える景色は、政府の発表や指示に対して、借りてきたネコのように実におとなしく従っている教会の姿が目立つからです。日ごろ政府のやり方に逐一批判を唱え、今回の新型コロナウイルスへの対処にしても政府のやり方に批判の矢を放ち続けているような方々や団体の多くが、なんともあっさり政府の呼びかけに従っているように見えて仕方がないのです。ここから、かつてないほどに厚かましいことを吠えます。弁解じみて聞こえるかもしれませんが、個人攻撃をしているわけではありません。キリスト教界全体に関与する問題、一人ひとりの信仰について問いかけるのが目的です。そしてできれば祈って戴きたいという思いで。表現はきついと思いますが、感情的ではないつもりです。十分な推敲はできていませんが、言うべきことを幾度も書き加え、できるかぎり適切に伝わるように考えました。十分な時間をかけることができていませんので、うまく伝わらないところがあるかもしれません。私自身はどのように非難されようとも構いませんが、もしも以下の中に、何かひとつでも、皆さまの心に挑戦を受けることがあれば、それを大切にしてください。事柄そのものについて考えてください。何か気づくことがあればと切に願っています。私などはしょせん預言者気取りに過ぎないかもしれませんが、これを契機に問題意識を覚える方は、幸いです。いくらかでも耳の痛い思いをしながら、お付き合いください。教会がいま問われている、というより、私に言わせると、教会が淘汰されようとしていると思うからです。
 
早計に判断なさいませんように。新型コロナウイルスに警戒することがおかしいなどと言うことが即座に人の命を軽視せよと言っているというふうにつなげて戴きたくないのです。まずは、日ごろの批判精神はどこへやら、お達しに、むしろ過敏に反応して、礼拝すら取りやめなどと言っている様子を問題視するのです。確かに、へたに集会を開いてもしそこで(韓国の宗教団体のように)感染が拡がったら、社会から非難を受けることでしょう。しかしそれがどうした、とまでは言わなくても、背景にある心理はどうであれ、傍から見た現象として、政府の呼びかけにいとも簡単に従順に従っている教会の姿がそこにあることは否めません。
 
それは、80年ほど前にも、あったことです。
 
自分たちでは、政府に屈服しているつもりなどないのです。内的な精神の自由があるなどと粋がっているのです。けれども、それが何であったかを、戦後かなり経ってではありますが、多くの教団が悔い改めという態度で振り返りました。あの歴史が重なって見えて仕方がないのです。これは仕方のないことだ、と言い訳しつつ、お上の言うことにあまりにもすんなり従っている現象がここにあるということです。ご時世がこうなんだから、と口々に言い合う姿が目に浮かびます。これはある意味で、ウイルスより怖いと思いました。私たちは歴史から何も学んでいないことになるからです。同じ道をつくるのは、政治家や軍国主義復活を目論む人々だけではありません。それに従う私たちがつくるのです。だから怖いのです。自分は違う、と言い張る人こそが詐欺の恰好のターゲットだという如く、自分たちは違う、と言い張るからこそ、自分がつくっていることに気づかない怖さです。
 
ところで、いま国会議員がもし新型コロナウイルスに感染したら、どうなるでしょうか。社会機能が混乱することは必定です。キリスト者の皆さん、いまこそ、上に立つ権威のために祈る時ではないでしょうか。適切な判断がなされ、働く人たちへの守りがあるように、そして感染者の癒しのために、祈る時ではないでしょうか。国会内部では、先輩議員がマスクをしないので後輩議員がマスクを着けにくいという雰囲気があるそうです。また、諸外国の政治家の映像ではマスク着用が多いのですが、日本では、マスクをする画が政治家としてのイメージを悪くする、とのことで着けていない、という事情がその背景にあるようです。いいんです。マスクが予防にどれほどの効力があるか頼りはないのですから。しかしどうであれ、国会議員の内部で感染したら、機能停止に陥ります。電通のように一斉に自宅待機となるのでしょうか。
 
SNSでちょっと見る限り、教会ではこのように対処しますとか、政府のやり方は間違っているとかいう声はたくさん聞こえるのですが、政府のために祈ろうとか、感染した人の癒しのために祈ろうとかいう声は、(もちろんきっとあるのでしょうが)殆ど聞こえてきません。政府を批判することは必要でしょう。しかし、祈らずして、誰かを助けることにはならない、と普段説教は語っていませんか。愛を冷やしていくようなことには、ならないのでしょうか。感染した人も、好きこのんで感染した訳ではありません。しかし、偏見が押し寄せることでしょう。どうしてそんな所へ行ったのだ、なんでかかったのか、などと。かからなくしても、医療従事者がいじめられているという報道もありました。現場で働く人が一番大変なのです。福島の原発事故のときにもそうでした。身を張って現場で闘う人たちを尊敬こそすれ、排除することが、キリスト者のすることでしょうか。いえ、そんなことはしていないと仰るかもしれませんが、そのために祈っているでしょうか。弱い人を助ける祈りを続けていると、いろいろな見方も変わってくるはずです。イエスであれば、そこへ眼差しを注ぎ続けていたのではないでしょうか。感染症の人に手を触れて癒したイエスのスピリットは、いま誰により実現しているのでしょうか。
 
祈りましょう。病に苦しむ人のために。この病のために現場で闘っている人たちのために。社会機構を司る政府のために。どうも政府の判断や機能に問題が増してきているように見えることには、多くの皆さまがお気づきでしょう。たんに国会議員の健康が守られるように、というだけの祈りであるべきではありません。内外の圧力や責任問題を気にするあまりに、判断が混乱して、悪い言葉で言えば支離滅裂になってきているような為政者の判断が、適切な道を見出して正されるように、祈ることも必要です。あいにく、そのような祈りは私に入ってくる声の中には聞こえてきていないようなのです。
 
しかしまた、私たちも気づかなければならない点があります。27日、政府は全国の小中学校に一斉休校を要請しました。そう、これはたとえばその親たちにと大混乱なのです。子どもを家にひとり置けないような医療従事者が出勤できなくなると、とてつもない事態に陥りますし、一般従事者ももちろん途方に暮れます。しかし、この要請にはなびいていくような気配がします。様々なイベントが中止を打ち出し、スポーツ界はかろうじて競技はしても、観客を入れないという不自然さを呈しています。政府は「要請」という言い方をしていますが、それは「法律」に基づくものではありません。だのに多くの人々が、政府の声に「一斉に自ら従って」いる光景があるのです。昔は、治安維持法のような法律があって強制力を以て有無を言わさず従わせました。いまの時代に治安維持法はありません。が、そんな法律がなくても、政府の呼びかけに、市民はいとも簡単に右へ倣えで一方向になびいてしまっているのです。いや、政府に従っているわけではない、と言い張ったにせよ、シーソーの片方の側に乗って重みをかけている以上は、世間の大勢の一員として機能してしまっていますから、勇気ある反対者をますます潰す作用を及ぼしていることになっているとは言えないでしょうか。いくら心の内で自分はそうじゃないよと呟いても、シーソーの大勢の側に乗って体制に加担している事実は確かなのです。
 
キリスト教界は多くの行事中止を次々と発表しています。果ては礼拝中止、そして教会閉館まで示しているところがあるのですから、ご本人たちがどのような気持ちであれ、傍から見れば尻尾を振って従っていると言われても仕方がないような有様となっています。軍の圧力や脅しが法律として強制された時代でなくても、人々は簡単に政府の言葉になびいていくという現実を見て、私は呆然としています。また、腹立たしく思っています。ふだん政府を批判し、皮肉めいた悪口を飛ばし、あれは間違っていると主張していたはずの人が、あわてふためきうろたえている様子も現実に見てしまいます。
 
教会からの呼びかけの多くからは、自分の教会で問題を起こさないように、という恐怖が感じられます。残念ですが、日を追って、礼拝中止を宣言する教会が増えてきました。もちろん特に高齢者や病気をお持ちの方は心配です。礼拝出席を強要したり、休んだら不信仰だ、のような構えを見せることは厳に慎むべきです。しかし、出席できる人をもシャットアウトしてしまうというのはどうなのでしょう。そもそも、毎週主の日に集まることを延々と繰り返してきた教会の命、そして主に対する信仰の証しとでも言える礼拝という教会の命を、そんなに簡単にお休みです、などという判断は、聞いたことがありません。いくらネット配信ができる時代とはいえ、礼拝そのものを止めるということが私には理解できません。たとえ中止にはしなくても、中にはこういうのがありました。公共交通機関を使わないと教会に来られない人は、来てはならない、と。排除です。イエスやパウロがどう対処するかはもちろん分かりませんが、私は排除を好んだようには思えないのです。
 
あるいは、はっきりとヒステリックに、礼拝で感染者が出たら礼拝中止だ、と叫んでいるものもありました。誰が中止にするのですか。政府の圧力や命令でしょうか。法的なものはあるかもしれません。それとも世間の眼差しでしょうか。礼拝は信仰の行為です。礼拝をやめる、それは信仰を捨てることのように思えて仕方がありません。そんなことよりも、感染して苦しんでいる人のために祈りましょう、という声がどうして前面に出ないのですか。最前線で闘っている医療従事者のために祈りましょう、という祈りが呼びかけられないのですか。無関係なのに偏見が寄せられ排除されている人たちの安全のために祈りましょう、と言わないのですか。祈りに力がある、とふだんから説教しているのではないのですか。こんな時こそ、教会の建前や組織の利益、自己保身ではなくて、本当に苦しい立場にいる人のために祈る、病の人の癒しを祈る、それが教会ではないのでしょうか。これは、実はある高校生が言っていたことです。それを私なりに膨らませました。全くその高校生の言う通りです。大人が慌てふためいている中で、洗礼を受けてそう間もない魂が、大人が忘れた信仰を呼び覚ましてくれます。私たちはこうして目を覚ますことができます。いったい、その祈りが出て来ないところが、なんで「教会」などという名前を掲げていられるのでしょうか。眠りこけているのではないでしょうか。いやいや、ちゃんと考えている、そう仰る教会も多々あるはずです。しかし、多くの教会が、行事を「中止にします」とだけ発表しているのが現状です。そう言いさえすれば、「理由はもちろん言わなくても分かるでしょ」という感じです。全く右へ倣えの精神です。時折良心的な教会からのメッセージがあります。高齢者はもちろん他人への配慮は愛です、などと。そして、祈りを付け加えます。「感染が拡がらないように祈ります」と。私が見受ける祈りは、これが限度です。これはつまりは、「自分の教会の中へは感染が来ないように」の意味を含んでいないでしょうか。そして先の話に戻りますが、いま「感染して苦しんでいる人のために祈ります」が、どこからも聞こえてこないのです。いま「医療現場で献身的に働いている医療従事者のために祈ります」も、寡聞にして聞きません。検索の仕方にもよるでしょうが、唯一或るカトリック教会だけが、週報にこれを記しているのを見つけたのがせいぜいでした。こういう有様では、「ばい菌、来るな」と逃げているのとあまり変わらないように見えてしまうのは、私の偏見でしょうか。教会はふだんは、そのように病者のために、祈っていたのではありませんか。それが忽然と消え沈黙している、というより、すっかり忘れられているように感じられるのです。違うでしょうか。少なくとも公的な呼びかけの中には、見られないのです。教会の指導者たちは、自分の教会に責任がかかるようなことが起こらないように、ぴりぴりしているばかりではありませんか。この問いが、完全に的外れであればよいのですが。
 
その週の礼拝説教で「恐れるな」と聞いた教会からも、そんな恐ればかりが発信されているように見えます。果たして私の偏見でしょうか。その「恐れるな」と語った本人から、どうして、「今こそ恐れるな、信じましょう」という呼びかけが発信されないのでしょうか。説教というのは、講壇から日曜の朝だけに語られる建前でしかないのですか。恐れるというのは信じないことと同じだという説教は、教会員には何にも伝わっていないようです。そして語ったほうもすっかり沈黙しています。それとも語ったほうも綺麗事だけを語った、形式的な儀式という意識しかないのでしょうか。講壇の上で力強く福音を語った内容は、講壇を降りたら、もう同じことは決して口にしないと決めているのでしょうか。あの講壇での雄弁は、たんなる舞台演技に過ぎなかったのでしょうか。そこから生まれた言葉が、新約聖書でこう訳されていました。「偽善者」と。説教をするような方がこれを知らないはずはなく、一度や二度は説教で触れたことでしょう。誤解なさらないでください。誰かを非難しているのではないのです。語る側もそうですし、聞く側もそうです。講壇で語っている内容と、それを神の言葉として聞き、神の言葉が出来事となっていく場としての礼拝だとするなら、その出来事とは何なのでしょうか、という問いかけです。要点は、そこだけです。私たちは、聖書からの説教を、なんだと思って聞いているのでしょうか。心洗われる美しい教えでしょうか。人類の知恵はすばらしいみたいな感心でしょうか。キリスト教がお洒落なのでしょうか。口先だけで愛するために、善人になった気分を分かち合うためでしょうか。私たちキリスト者は、毎週、何をしていたのでしょう。語る方も、これまでご自分が講壇で語ってきた原稿をもう一度読み返して戴けないでしょうか。このような時にどうするのか、たぶんどこかで語っているはずです。いま、弱い人をどう助けなければならないか、祈りがどう必要なのか、どのように神を見上げるのか、きっと語っていると思います。それが嘘などでないのだとしたら、かつて語った自分の説教を、いまの自分が聞くということをしてみては如何でしょう。いまの気分に流されるのでなく、岩なるキリストのように動かされず、聖書から確かに聞こえていたあの細く弱い声を、いまこそ聞き取る時ではないかと提言したいと思います。
 
そしていまこそ、語る時ではないでしょうか。信徒たちは怯え、不安になっています。羊たちが迷いかねなくなっています。百匹のうちの一匹どころか、九十九匹が動揺して妙な方向に走って行こうとしているかもしれないのです。この現実の中でこそ、神の言葉から説教しなければ意味がないでしょう。日ごろ説教者が語るように、「恐れるな」「人でなく神を信じましょう」「大胆に福音を語りましょう」「弱い人を助けましょう」「困難があろうとも神を礼拝しましょう」といったスピリットが、いまこの現実の中のどこに響いているのでしょうか。全くその逆のしおしおとした声ばかりで、尻尾を巻いて政府の声に従順にひれ伏し、あげくはチェーンメールを拡散さえしている。この騒ぎが過去となったとき、いったい講壇で同じ説教ができますか。もう二度と、聖書から語ることなどできないのではありませんか。日ごろ聖書を立派に解釈し、信じることのすばらしさを語り、信じる自分は幸せだのように語っていた人が、ただの偽善者に成り下がってしまうのです。平穏なときに語っていた、ご自分の福音を振り返ってみてください。同じことが、いま語れますか。それとも平穏無事な世界でつい強気になって偉くなった気持ちになって福音を高らかに語り人に信じさせた一方で、現実に困難が来ると、そうは言っても現実は、と、かつて自分が語り勧めた聖書の言葉を、もう撤回するような態度をとるのですか。いまこそ、聖書の教えを説教してくださいよ。神の言葉を語ってくださいよ。羊たちが不安になっているこのときに、不確かな世の情報などではなく、世を超えた永遠の言葉を力強く語ってくださいよ。いまこのときのために、神により立てられたというのが召命ではないのでしょうか。ここで神の言葉を語るのが、牧師という仕事ではないのでしょうか。あるいは、牧師が教会を所有しているのではないから、教会員の意志に従わねばならないとして、沈黙をするのでしょうか。神が沈黙していると私たちはしばしば口にします。いまそうなのでしょうか。神の言葉を語る人がいるはずです。神の出来事をその語る言葉により現実にして神の力を示す人がいるはずです。沈黙しているのでは神ではありません。神の言葉を口にすることをつぐんでいるその人です。または、神の言葉を発させないようにしている、教会員の一部です。神の言葉が力であり、人を癒し、愛をもたらすと、もう語れなくなってしまったとすれば、組織となってしまった教会は、そうやって死んでいくのでしょうか。でも私の従うのは、そんな組織としての教会ではありません。神の教会には従いたいのですが、神の言葉を語らない、命のないこの世の形だけの教会の言うことを第一とはしません。逆に、教会が目を覚まして、いまここでこそ神の言葉を語るのだというふうに助けたいのです。
 
反論が聞こえてきます。これは命がかかっている、と。命を守ることが聖書の愛であって、教会には社会的責任もある、と。狂信するな、現実を見よ、などと。そう、社会的責任があります。ただ、聖書の言葉がそれに従属するものかどうか、以前その教会では、どのように語られていたでしょうか。聖書の言葉は随意に利用するばかりで、無難な活動をすることで社会に住まわせてもらっているという気分で、教会が存在するということなのでしょうか。教会は何のためにあるのか。教会の存在意義を説教で語っていたことはありませんか。教会の使命は、何でしたか。どうかいまの自分たちではなく、いまの自分たちの外からくる声に耳を済ましてみてください。そのように教えていませんでしたか。神からという外、あるいはかつて自分たちが神に生かされていたときに語り、また聞いていたという意味での外、そういうところから、いま渦の中で右往左往している私たちの内から出てくる言葉ではなく、外から生かす言葉がないか、それを聞こうとしてみることは、不要であるとは思えません。
 
早合点なさいませんように。じゃあ礼拝を休まず集まれと言うのだな、それで教会が感染源となったらどう責任をとるのだ、などと言われそうですね。なにも、教会が政府の呼びかけに抵抗して言うことを聞くな、高齢者の命の危機を顧みないのか、などという点で話をしているのではないのです。どうぞお休み下さい。警戒してください。その代わりお休みした人を不信仰呼ばわりするようなことだけは百パーセントないようにしてください。いろいろな事情の方がいます。リスクのある方は基本的な対応を守ってください。ただ、気づいて戴きたいことがあります。そもそも毎年冬場のインフルエンザの流行において、教会がこのように礼拝中止などを考えたことがあったでしょうか。インフルエンザによる死者は新型コロナウイルスとは比較にならないくらい(現状では)多かったのです。感染者数は人口の1割に迫るほどあり、直接の死者は千人前後、間接的にそれによる死亡と目されるに至っては、1万人いるという推計が公的になされています。一年間に、です。このような中でも、教会は動じなかったはずです。それが、感染力が強いというだけで浮き足立ち、怯えています。マスクは防止に殆ど役立たないという医学的常識も聞こえず、教会ではマスク着用などと言い始めるし、それ以上に大切な手洗いの仕方やそもそもの体調管理、エチケットなどよりも、熱い湯を飲めば大丈夫などというチェーンメールに、キリスト教世界で大きな影響を与えるトップの方も簡単に引っかかっている始末です。知らないうちに感染していたら移すことになるんだぞ、との声も聞こえてきます。しかしインフルエンザの潜伏期も一日は十分にあります。発症の一日前から感染力もあります。そのインフルエンザの死者が年間1万人であったのに、教会は(一部を除いて)消毒アルコールを置いてもいなかったし、いま縋るように強調しているマスクも奨励していなかったのです。
 
ネットで散見する限り、とにかくうろたえまくっている人が多く見受けられます。確かに教会の対応も難しい面がありますが、信頼できるかどうか分からない情報に左右されている「クリスチャン」も少なからずいるようです。そう、新型コロナウイルス。感染力が強いということのほかは、通常のインフルエンザより特別に怖いものではないのですが、もちろんその感染力は軽くみることはできません。ミサそのものを中止するというのもそれなりの苦汁の選択であることを、安易に批判するつもりは私にはありません。しかし、そもそも礼拝に集まるというのは、命懸けのことであったはずです。新約聖書の中からもそれは十分窺えます。迫害の中で、殺されるかもしれない恐怖の中で、どんな覚悟で信仰を貫いたか、そうした人々が新約聖書という形の言葉でいまの私たちに神の言葉を伝えたのではなかったでしょうか。
 
ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。(ヘブル10:25)
 
こうした言葉を挙げることで、狂信的だとか、世の中を見よだとか言われそうです。馬鹿だというレッテルを貼られるのも覚悟の上です。しかし信仰とは命を求めることだとしか考えていません。命懸けというときの「命」は聖書における概念です。それはもちろん、現実の生物学的生命を軽んじることとは言えないでしょう。ただそれでも私の家族は毎日不特定多数の交通機関で職場や学校に通っています。医療機関で働いています。自分たちのために祈りつつ、しかし現実に苦しんでいる感染者のためにはもっと祈りつつ、闘っています。だから聖書の言葉というものはいまの私たちにも呼びかけているということについてだけは、私は翻しません。聖書から神が呼びかけていると信じているからです。しかし生活の知恵というくらいにしか考えず、結局は政府の言うこと、世の常識のほうが優先されるのだというふうに受け止める方がいることを非難はしません。それは、その人の信仰の問題ですし、それについてはとやかく申しません。ただ、教会がそうするならば、もうキリスト教会の看板を下ろして戴きたい。もはや教会ではないのですから。聖書研究会という程度が適当でしょう。教会は何かという定義については、新約聖書をご覧ください。
 
改めて振り返りますが、医学的にどうなのか分からないことも多く、不安を呷るデマもあることを含むと、情報の大切さをいっそう覚えます。マスクが無意味ではないにしろ、マスクで防ぐというのも殆ど気休めに過ぎず、要は体調管理と衛生観念、そして弱者への配慮というあたりに、注目点が集まるべきではないかと個人的には見ています。
 
この冬、インフルエンザの罹患者が異常に少ないのは事実です。新型コロナウイルスに関係しているのかどうかは分かりませんが、ここのところ手洗いや消毒など、衛生観念が広く行き渡ってきた影響も少しはあるかもしれません。医療従事者が家族にいると、要するに毎年普通にやっていた当たり前のことが、いまやっと真摯に捉えられるようになったというのが、逆に言うとふだん残念だったな、とは思うのですが、適切な知識が広まるのはもちろんいいことです。私も毎年気休めのマスクを冬は着け続けていたし、手の洗い方(小学生のほうが近年学校できちんと習っているのでよく知っていて実行している、だから新型にしても子どもへの感染は比較的少ないのだろうか、あるいは子どもは重症化しにくいとするならば、そこに何か理由があるのだろうか)や手を顔に付けないなど、予防としては本来形だけの不十分なマスクよりも大切なことの理解が、もっとなされるようになるといいのだが、と思います。
 
27日の朝、なにげなくテレビのスイッチを入れると、「とくダネ!」のチャンネルでした。特別養護老人ホームでの問題がレポートされていました。この新型コロナウイルスの流行で高齢者を預かるホームでは、面会禁止を決めたというのです。家族でさえ面会できないはずなのに、テレビ局のレポーターでしたら入れるというのにも少し不条理さを感じましたが、外部の者がそこに入るためには消毒を徹底的にするのだとレポーターが説明しました。アルコールで手指消毒をします。私はその洗い方に注目していました。指の間や親指あたりはそれなりに消毒していました。ぎゅっと握らずさらりとしているのも気になりましたが、それはまぁいいのです。問題は爪でした。女性レポーターは、非常に長く爪を伸ばしていました。つけ爪かもしれません。そして、この爪の部分については、消毒を明らかにしていませんでした。それでもまた喋りながら奥へ。さらに高齢者のいる部署に立ち入るためには、もう一度消毒をしなければならないと、施設の担当者が説明する、また形作りの段取りがあったのですが、スマホなども消毒する、それはまた結構なことなのですが、ここでもレポーターは爪には全く消毒液がかかりもしないし付くこともないのでした。しかもそれを見ている担当者もそこを見逃しているのでした。せっかくこの事態で衛生観念が広まっていると思いきや、この程度です。爪はウイルスの宝庫です。そこを消毒しないのは、ザルもいいところで、この取材が許されているのでした。そして家族は禁止されているというのです。非常に憤慨しました。このような洗い方を放送で流していると、視聴者もそんなもんだと思うではありませんか。その場面で、「爪をしっかり消毒してください」の一幕でもあれば、適切な消毒法が伝わるのに、こんなのを流しているというのは。しかもスタジオの誰も、このことを突っ込まない、つまり見てもいなし、恐らくは知りもしないのではないかと思いました。テレビ局ももはや害悪ですが、恐らく一般の人々も、消毒液を手に入れることに必死であっても、その程度の知識でただモノが欲しいと思っている程度ではないかと思うと、ウイルスよりも怖い気がしました。
 
もうひとつ、27日に声高に報道されたのが、感染した後一度陰性判定された人が再び陽性反応が出た、ということがセンセーショナルに語られていました。ウイルスが謎めいており、より怖いものだという印象を投げ与えるだけの、まずい報道の仕方でした。ひょっとすると、ウイルスが一個でも体内に入ったら感染となり症状が出て命が危なくなるのであって、治ったらウイルスがすべて体内から消えてしまう、などと考えている人が、まさかとは思いますが、案外いるのかもしれません。私のような素人でもそうじゃないことは分かります。私たちは、様々なウイルスをもっています。殆ど共生しています。このコロナウイルスが自分の体内にいても、決しておかしくはないと考えます。しかし雑菌にまみれた私たちが生きているのは、それを抑えるだけの免疫や体力があるからです。免疫不全という厄介な形のひとつがいわゆるエイズでした。今回のウイルスの性質やメカニズムはもちろんよく分かっていないとされています。しかし、免疫や体力の点で、高齢者が重症になる、あるいは命を奪われるというのはありうることで、多くの場合は、そう、確かに殆どの場合は、ウイルスの増殖を抑制しているはずです。回復したというのも、ウイルスの数をゼロにするということは考えにくく、症状が出ないほどにまでウイルス増殖を抑えて体機能が正常に戻ったと見なされたということなのでしょう。それがまたウイルス活動を活発にしてしまう状態になったら、当然また陽性反応が出ることになります。中国でも同様の事例は多数あり、とくに検査事情が判然としない上では、その検査対応の仕方によっては当然こうしたことは起こるはずのことだと言えます。そもそも検査自体も偽陽性や偽陰性が数%現れるであろうと思われますので、検査万能のように思い込むこともまた判断を誤ってしまうことになりかねません。恰も不気味な存在だとしてウイルスというものを報道で煽り洗脳していくことにより、さらに恐怖感を増し加え、何でも中止、マスクはどこだ、といったヒステリックな状況に導くことになるのですから、報道がセンセーショナルにしがちであるのは今に始まったことではないにしろ、なんとかならないかと思います。
 
こうしてある程度の知識も必要であることは確かなのですが、それよりも精神的な側面として問題になることを考慮に入れなければならないかもしれません。たとえばマスクをしない人への偏見や、医療従事者へのいじめなど、人々の心の奥にあるものが露呈してきているような気もします。それは教会も同じこと。そのうち医療従事者とその家族は礼拝に来るな、などということにもなりかねない勢いです。
 
マスクは、ろう・難聴の方にとり、益々コミュニケーションを取れなくするものです。手話がその名前の故に手だけのものと思う方もいらっしゃるでしょうが、違います。表情と口の形は非常に重要です。テレビの手話通訳者はマスクをしていないはずです。口話だけでも読み取るろう者もいるくらいです。街での買い物などでは口の形が頼りとなります。ここでマスクをされると、情報が全く消えてしまいます。この口話、年配の方はよく訓練されていますが、それは手話を認めなかった教育の故の徒花かもしれません。ともかく、手話の動作ひとつに意味は幾通りもありますから、口の形の情報を加えないと分かりづらいのは確かです。
 
マスクを着けない者は非国民であるかのように聞こえる言い方が、拡がりつつあります。医学的には誤った知識でも、一旦思い込むと、人間はすっかりそれに囚われてしまいます。恐れるな、というメッセージはこういう時のためにあるのではないかと思われます。恐れに支配されると、自分でそんな気がないにしても、してしまうのが差別の本質です。自分は差別などしていない、と豪語することが一番問題であることは、容易に想像がつくだろうかと思います。しかしマスク着用を規則のようにしてしまうと、ろう・難聴の方とのコミュニケーションを排除しているということに、なかなか気づいて戴けません。99匹の羊の側にたいていいる私たちは、残る1匹のことに、配慮が行きとどきません。政治や経済は、この99匹のために営まれるのが普通です(福田恆存,1946)。ところがいくつかの教会が普段批判している政治の世界の論理に、教会もまた支配されている可能性を、常に考えて戴きたいものだと思います。
 
その辺り、つまりろう者が読むと排除された気になりかねないような言い方で、マスクを着けない人はけしからんというような表現を含む文章で、マスクをマスクを、と教団の名前で呼びかけているFacebookがありましたので、先日コメントとして寄せました。すると揚げ足を取るなという剣幕で、全くご理解戴けなかったので、説得を諦めて私のほうから議論はすまいと話を切りました。ところが間もなく今度は私への強烈な非難が増し加えられました。私自身は何を言われても構わないのですが、大きな教団の代表のようなサイトがろう者の存在について無視するような姿勢を強くアピールして来られたのはよくないと思い、丁寧に説明をしました。その管理者の私への非難が的を射ていないことをも説明しましたが、すると今度は、内容には一切触れず、長い文で議論をするな、削除せよ、との通告。そしてやがて記事全体が削除されてしまいました。もっと多くの人に、マスクとろう・難聴の方々との関係を知ってほしかったのに、残念でした。もし皆様が関心をお寄せでしたら、その私の説明と応対についてはいつでも公開させて戴きます。
 
医学的な情報も、いろいろな意見が錯綜しています。その点は私はその説明の中で触れませんでした。マスクが今回のウィルスについて殆ど意味をなさないことはほぼ明らかだと思いますが、全く意味がないわけでもないとは思われます。こうした状況で、マスクを着けていなければ悪人のような雰囲気をつくり出すような言い方を、わざわざする必要はないと考えただけです。こうして不確かな思い込みにより、人々の間で偏見や嫌悪感が拡がっていく有様を見ると、歴史上の疫病の怖さとはまた違い、医療の進んだ現代においては、疫病そのものよりも、愛が冷えることが、病気そのものよりも圧倒的に拡がっていくものなのだというふうにも思えました。
 
もちろん、教会としては対処が難しいところです。社会的責任がどうの、と言いたくなる心理も分かります。だが教会の責任は神に対してが第一です。いつもそのように説教がなされ、聖書はそう言っている、と誰もが聞いています。それがこの騒ぎでかき消えてしまっていることが問題なのです。そしてウィルスはマスクを素通りします。マスクを着けろ着けないので争う場面ではないのです。しかし、気休めでも着けることを否定はしません。実際私は毎年気休めに冬はマスク生活です。ですから私はもちろん、マスクを外せ、と言っているのではないことは、普通にお読みくださればお分かりだろうと思います。カトリックでは、ミサの時にマスクの着用を許可する、というのもありました。元来好ましくなかったということなのでしょう。なかなか難しいものです。マスクをしても構わない、という辺りで折り合いを付けて戴けたら、と提案はしましたが、削除されてしまいましたので、いま簡単に触れておきます。今回は感染能力の点で、気づかない感染者がいることへの疑心暗鬼の思いが拡がるわけですが、マスクをすればそれが軽減できる可能性がわずかでもあるというならば、配慮は必要となるでしょう。特に高齢者の多いのが教会というところ。愛のある賢い方の知恵が俟たれます。もちろん、こういう時に礼拝に出席しなかったから不信仰だ、そんなことを言う人はどうかしています。いいのです。礼拝に出るかどうかは様々な事情や判断があります。ふだんだって、礼拝を都合でお休みする場合があるのですが、それを殊更に咎める人はいないと思います。ただ教会が恐れに恐れて、礼拝しません、と宣言することは、もう信仰でもなく教会でもなくなる、そして今後二度と聖書からメッセージを送ることができなくなることになりはしませんか、と申し上げているのです。礼拝出席を強いているのではありません。だからまた、礼拝に来るなと強いるわけでもありません。教会に足を運んでも、運ばなくても、愛であればそれでよいのです。神の言葉に従うならばそれでよいのです。誰にも何をも強いることなく、私たちが聞いた聖書の言葉、神の言葉に押し出されて、イエスの愛を体験しつつ、一人ひとりの礼拝がゆるされる案が、祈りの中からきっと見出されていくだろうと期待しています。キリストに生かされている者たちの間から。
 
私たち人間の言葉は不完全です。私も当然その一人であり、人をずいぶんと傷つけてきました。いまも全く気づかないままに、いろいろな人を蹴散らしてこんなことを言っているのかもしれません。どうぞ気づかれた方は教えてください。私はそれで相手に削除を求めることは、たぶんないだろうと思いますから。しかし、いま教会が淘汰されているように見えて仕方がありません。信仰などとふだん言っているが、そんなもののない、建前だけ聞こえのよいことを雄弁に語るがただの世の常識に従うことを最優先する聖書研究機関としての教会と、永遠の命を求め、神に従おうと生きる教会とが、この事態の中で色分けされていくような気がしてなりません。私は裁きません。ただ、私は前者の教会には、属するつもりはありません。イエスの「名」の下に、福音を聞き、語りたいだけです。もちろん、この件については、深い洞察をしている教会があることも知っています。すべてを一律に問題視しているわけではありません。しかしもし、他者への祈りを忘れ、恐れにつつまれて聖書の言葉を忘れていたのではないか、と思い当たることがあるならば、ぜひ方向転換をして戴きたいと願っています。まだ、気づくならば、そしてそれを改める気持ちが起こるならば、神の言葉と愛は命をもたらすに違いありませんから。



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