排除と助け合い
2020年2月26日
「無尽」という制度があります。日本で、鎌倉時代に始まったのではないかと聞いています。仲間が金を出し合い、集まった金を皆のために使用するというのが基本的な構造です。一時的に資金が集まりますから、用い方によっては、立派な金融機能を果たします。江戸時代に金融の仕組みとして大きくなっていき、時に禁止されました。明治になってもこの仕組みは残り、戦後は相互銀行という形で継承されたそうです。私的には、現在も村とか町内とかいうレベルでこの習慣が残っているところもあり、たとえば集まった金で宴会をするというのもあるし、誰かの必要に応じてどんと渡す、あるいは順番に誰かが全額を受け取っていくなど、いろいろな活用法があるといいます。
一種の互助制度であると見ることもでき、現在の共済制度がこれに近いかもしれません。また、ざっくり見ると、保険制度と似た意味合いをもつものとして受け止めることもできそうです。ひとりでは、大きな事態に対処できない資金的な問題を、知り合い仲間が少しずつ出し合った資金を集めて、その一事に使うことを認めるというものです。全員が一度に大きな事態に巻き込まれるという想定をせず、とりあえずその都度誰かが必要になる事態に陥る、というようなことを想定しています。ただ、これが保険会社となると、利益を出すことが大きな目的の一つになります。資金を活用する道が工夫されなければなりません。そのため、会社としては保険金を支払っていくことができるだけ少なく、しかし保険料を多く集めるということが、望ましいと言えます。もちろん、時にちゃんと保険金を出していかなければ、誰も保険料を支払ってはくれませんから、程よい収支が求められます。ただ、それでも、可能ならば多く保険金を支払いたくはないですから、たとえば生命保険では、死が近い病気の人と分かっていながら契約をすることはしない、というようなルールができることになります。
いま重病の人が、急に生命保険を契約する、というのは、確かに保険金目当てであるし、それまで長い間支払ってくることなしに突如として保険金を奪い取ることになりますから、保険会社もそのような偽装には厳しく監視の目を注いでいるはずです。世にいう「保険金殺人」もこの辺りの構造を狙った犯罪というふうに言えるでしょう。
では、保険契約をする当人が現在健康で問題がないようでありながらも、その親きょうだいが特定の病気で次々死んでいるような人の場合、どうなるでしょう。保険会社はそこに注目することになるでしょう。近親者の病歴を勘定に入れて保険料の学を上げるなどの措置をとらなければ、利益が失われる恐れがるかと思われます。これは、科学が発展して、近親間の遺伝的性質が健康や生命に影響を与えることが判明してきたからです。人間の知識が発達すると、同じ助け合いも、事態が変わってくるのです。
さらに今の時代では、遺伝子検査というところにも科学の手が及んできました。つまり、契約者の遺伝子を予め調べて、たとえ今は発症していなくても近い将来にどのような疾病に苛まれることになるかが、一定の確率で分かってしまうということが現実になっているのです。そうなると保険会社は、契約の条件として遺伝子検査を受けてその結果を会社に提出する、ということを出してくる可能性があります。健康診断の結果を提出というのはよくあることですから、いわばそれの延長に過ぎません。しかし、この結果により契約できないことになるとか、保険金の額が上がるとかいうことになると、会社の論理としては理解できるのですが、遺伝的性質によって、ただその理由のみで、保険契約ができないという人が現れてくることになります。
言うなれば、無尽の仲間に加われないことになります。最初から排除されてしまうのです。これは当初の互助的な目的からは外れてしまうことになります。そして、病気をもったり、重い障害を持ったりというように、自ら働けず収入も期待できないという、一番助け合いのためのお金が必要な人が、助け合いの輪から排除されるということになるのです。科学技術の発展が、助け合うつながりを引き裂き、弱い立場の人を窮地に追い込んでいくことになります。もちろん、政府がこれを見越して、弱者はもう条件なしに助けていくという徹底した方針が貫かれるならばよいのですが、どうもそういうことは期待できないように思えます。
それどころか、「優性思想」がいつの間にか、経済的な事情といつの間にか混合されてしまい、非効率的な人間は生きる意味がない、価値がない、と糾弾していく考え方に、一理あるように思わされていく、私たちの社会がここにあります。そうは思いたくないでしょうが、そうではないと言い切れるでしょうか。そして、そういう思想を持ちその手で実行してしまった者に対して、私たちは彼と同様に、「おまえは生きる価値がない」という宣告をするのです。
日本医学会は2020年初頭に、「優性遺伝」を将来「顕性遺伝」と(「劣性遺伝」を「潜性遺伝」と)表記するように移行することについて意見を募集し始めました。この「顕性」についてはすでに以前から提言がなされていましたが、実行のための具体的な動きが始まったということです。「優劣」の誤解や偏見を招きやすいというのが、この専門用語の改訂の理由です。ナチスドイツにも利用されたこの優劣の概念は、言葉を使って思考する私たちの意識を、気づかないうちに、自らの優位や他者の排除の構造を義認させていた可能性に気づいて改めようとするのです。v
偶々多数派の中にいるという自分が、少数派よりも優れているということは必然ではないでしょう。聴者は、ろう者の集まりの中に入れば少数派であり、孤独であり、コミュニケーションのできない立場になります。二本足で歩行する者は、車椅子の人々が低い天上の家屋で集まっている会合では苦しい思いをしながら歩かなければなりません。私たちは、自分と違う立場にある人を、何の意識もなしに排除します。自分たちが当たり前であり普通であるとして、そうでないタイプの人の不都合は考えません。少なくとも多くの場合、気づきません。想像力が欠けているのは、よく言われるように子どもたちの教育の問題ばかりではないのです。
さらに大人は、経済といったような別の原理を正義として掲げることで、排除を正当化する理屈すら掲げます。最初に取り上げたあの「無尽」が、もし元々素朴な助け合いであったとするならば、それは正に尽き無い助け合いとなりえたかもしれません。キリスト者が、尽き無い神という存在を礎とする生き方の中に生かされている者だとすれば、神ならぬものを第一の根拠とすることで誰かを排除するのではなく、どうしたら助け合えるのか、そして自分もまた助けられているまさに当の者であるという捉え方をどうしたらもてるのか、そこから考え始めていきたいと願うのです。