新型コロナウィルスと教会、そして中国の教会のために
2020年2月20日
新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の勢いが止まらない。連日報道されていますし、WHOはもちろんのこと、良心的な医師のアドバイス情報もありますから、噂話に右往左往さえしなければ、適切な知識は入手可能だろうと思います。
日本国内においては、対策上のいろいろな問題もありましたし、現に感染した患者も多く見出されているので、軽視はできません。通常のインフルエンザに比べて致死率が20倍を超えるなどとも見られていますが、感染者数からするといまのところインフルエンザのほうがさらに怖いという見方も可能です。必要以上に騒いでうろたえることが是か非かということも囁かれています。それでも、感染力の点からは侮ることはできません。
まずは中国のことを覚えたい。中国広東省では、私有財産の徴用が許可されるけ法がこの度適用されています。新型ウィルスの処置のために政府が自由に個人の財産を用いることができるとするものです。そしてその陰で今月より、宗教の禁止の法的適用が始まっています。
すでにここ数年、宗教弾圧が激しくなっていましたが、新たな法律は公布は昨年秋なので、このパンデミック騒ぎにより発令されたわけではありませんが、逆にそのために報道が薄くなっています。去る12月でも、クリスマスのお祝いが根こそぎ中止にさせられました。キリスト教に限らずイスラム教や道教などにも適用されるのですが、あらゆる宗教活動が政府当局の許可無しでは不可能になる法律です。共産党が承認しないリーダーを置くことはできない、というからには、事実上あらゆる宗教を禁止すると言うに等しいわけです。そこで、このウィルス感染症は神の怒りである、と内外の信徒が口にするようにもなっているのだそうです。
今度は日本国内のキリスト教会に焦点を当てます。すでに一月末に、カトリック東京大司教区が明確な指針を伝達しています。このあたりはカトリックの強みかもしれません。
日本聖公会東京教区もその翌週に呼びかけています。
さて、プロテスタント教会はその点ではまとまった声明が難しいのですが、各教会で対応が考えられているのではないかと思われます。それでいま考慮したいのが、「握手」です。
「平和の挨拶」や「歓迎の握手」など、名称は分かりませんが、礼拝の中で、あるいは礼拝の前後で、互いに握手をして挨拶をしましょう、というプログラムのある教会があるかと思います。
患者の報道もない地域で、しかも教会という信頼のある中で、握手は必要だ、という意見もありましょう。それくらいのことを恐れて握手を避けるというのは悪魔の試みだ、と信仰論を掲げる人がいるかもしれません。
けれども、初めて教会を訪れた人が握手を求められ、この時期にこんなことをするのか、と嫌な思いをすることは大いに考えられます。また、いつも来ている信徒の中に気にする人がいたからと言って、不信仰呼ばわりする必要は全くないかと思われます。たとえ世の様々なイベントが中止や規模縮小をしたり、また企業が時差出勤をしたりするのが、過剰反応ではないかという見解をもっている人がいたとして、またそれが正しい見解であったとしても、偶像に献げた肉を嫌がる良心の問題以上に、これは健康と生命、また経済全体の問題であるわけです。小さな子どもやお年寄りと同居する人は、まさに生死の問題ともなりえます。ここに「握手」を半ば強要する、あるいは避けられない状況にする、というのは、もはやただのハラスメントとは言えないくらいのものとなりかねません。
もちろん、これは握手をしている教会を非難しているのでもなく(実は私のところはそれをしている。ただ、初めて教会に来た人と握手したとき、その顔がちょっと歪むのを見たので自ら反省した次第なのである)、さらに事は握手だけに限りません。このあたり各教会はどのような考えで、どのように対処しているのでしょうか。また、これからどうするのでしょうか。
【追記】この日、福岡でも初の感染者が確認されました。しかしまずは落ち着いて。