本は我が道の光

2020年2月18日

どうにも行き詰まりを覚える。否、自分にはそもそも行き詰まりしかない。しかし、なんとかそれを打開しないと先へは進めない。新しい世界が現れないし、未来へ続く道がない。ここを乗り越えないと、次の風景が見えてこない。
 
ではどうするか。
 
キリスト者は言います。「祈りなさい」――そう、それは間違いではありません。むしろ、正しいのです。正しすぎるくらい、正しい。でも、そこで何がもたらされるでしょう。驚くばかりの奇蹟? そうありたいものです。でもそれが起きなかったら? いやいや、それは信仰がないからです。なんでも人間が、あるいは自分がやるのだというように考えているから、だめなのです。聖書にはそのようなことがいっぱい書いてあります。――そう、それも正しい。そして、そうは言っても、などとためらうと、またそのキリスト者は言うのです。すべては不信仰によるのです、と。
 
キリスト者は、他人の事柄になると、たいそう信仰深くなることがあります。いえ、専らそれだというふうに、見えないこともありません。他人の悩みには、聖書の言葉がどんどん適用できて、励ましたり、時に批判したりもできる、強い信仰を見せる人。ただ、自分が苦しい目に遭ったときには、それとはすっかり別人の様相を見せる人。
 
行き詰まりのとき、人を頼るのは不信仰だ、などという偏見は、せめて乗り越えさせてもらいましょう。そして、助け手としての人物も、神が備えてくれると信じて、人を頼ってみましょう。でも、そんな人が身近にいないから悩んでいるのであるし、ネットに相談という手もあるけれど、いろいろな罠や危険が伴う場合もあるし、炎上云々などという不愉快なことにもなりかねないとなると、少し躊躇いますね。
 
誰かに直接もちかけても、その人も忙しいし、夜中にパンを求めるような訪問をすることもできやしない。でも夜にもの苦しくて、誰かに尋ねたい、分かってほしい、ということだってありましょう。そういうとき、本という友人がいると、助かります。本にはあらゆる立場のあらゆる知恵が隠れています。こちらの都合で振り回しても大丈夫です。夜中でも寒い中でも、いつでもこちらの要求どおりに付き合ってくれます。そして、じっくりアドバイスを語ってくれます。別の世界を見せてくれます。私がひとりでは絶対に経験できないような世界を、垣間見せるだけでもとにかくしてくれるわけです。そして、しばしば完全に目の前の壁に風穴を開けてくれます。時にその壁を破壊して吹き飛ばして、ベルリン以上に新たな生き方を切り拓いてもくれるのです。
 
歴史上の、無数の人が、そこにいます。本を通して、時間空間的に、絶対に出会うことのできなかった人に、私は出会うことができます。このような素晴らしい助け手が与えられるのだとすれば、その業を神に感謝しましょう。それでよいではありませんか。自らの身体を傷つけていつまでも神の名を呼び祈り続けることを、エリヤは嘲笑ったのですから。
 
こうして世界を見せてくれた本たちの一部は、廃棄せざるをえなかったのですが、なかなかそうはできないものが多くて、本に埋もれそうな私の居場所が、相当に家族には嫌悪されています。それはその通りです。断捨離のできない私の次の敵は、この意志そのものであるのかもしれません。



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